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La Goya

2006年09月20日

”ゴーヤー”な関係

移民大国・アメリカで生活した経験のある人なら、大抵どこのスーパーマーケットにも置いてあるこの食製品を見たことがあるかと思います。


その大手食品ブランド、その名も「GOYA」
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初めてこの「GOYA」食品を知ったのは、17年前、同じアパートに住んでいたボリビア人宅での事。用事で立ち寄ったらお喋りが弾み、お昼を作るところだから一緒に食べないか、と誘われた時でした。


遠慮なく「 yes !」と返事しキッチンへ向かう。そこでお喋りを続けながら奥さんのアリシアが鍋を取り出し「ブラックビーンズは好きかしら?」
庶民的で全く気取らない彼女が、ある缶詰を差し出しました。真っ赤なラベルのその缶には真ん中に名の通り黒マメの写真がのっていて、その上に大文字で「GOYA」と書いてあるのです。


「えぇっ、ゴーヤ?!」渡米したてとはいえ、米国統治時代の沖縄で生まれ育ち、アメリカの缶詰製品に見慣れていた私にとって初めて見るブランド。それは瞬間にして、故郷を代表する野菜の「ゴーヤー」を思い起こさせ、ハデハデ・南国色で英語とスペイン語のバイリンガルで印刷されているレベルがすっかり気に入ってしまったのでした。


それからこの黒豆缶詰は私の基本食品の一つに加わり、次第にこのGOYAブランドは、アメリカのラティーノ達に最も親しまれているメーカー食品であることがわかってきたのです...。


それからGOYAの缶詰は、私に郷里の島を思い出させると同時に、米国のラティーノ達を思い起こさせる代名詞になりました。


ここでは「LA GOYA」のペンネームで、チャンプルー文化の落とし子の目を通して、チャンプルーな話題やタイムリーなニュースを綴っていきたいと思います。
みなさん、どうぞよろしくね〜。


*LA GOYA= LAはスペイン語で英語のTHE にあたる女性形・冠詞
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LA GOYA (The Goya) ・プロフィール 

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 北米在住うちなーんちゅー、女性。
 60年代、米軍統治下の琉球政府のもとに那覇で生まれ、
 対照的な二つの町、コザと首里で育つ。

 うちなーんちゅと世界に散らばる日系人の
 多様性、多国籍性、多言語性を活用させた、
 チャンプルーイズム・ムーヴメント提唱者。


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2006年11月28日

ヤンバルでの発見

10月の一週目から一ヶ月半近く、私は故郷の沖縄に帰っていた。
鼻っぱらから愚痴っぽくて申し訳ないが、せっかく帰ってきても日本の免許を持たない私は、久しぶりの沖縄を気ままにドライブ!古里満喫!、なんてことが出来ないのだ。 仮に運転が許されても、約20年前、自分の毎日の行動範囲であった場所以外、何が何処にあるのか新しい道路の名前もゆき先も、さっぱり分からない。ましてや左運転経験ゼロの私が、迷路のように入り組む沖縄の細道を地図を横目に左席レンタカーをハンドルのは、ほとんど自殺行為に等しいのだ。すっかり浦島太郎の私は運転はおろか、初めてみるマクドナルドのドレッシングパッケージの仕組みが分からず顔中にぶっかけたり、役所での支払いに証紙とか収入印紙とかの両方を2カ所で別々に購入して支払うという、複雑で不合理にしか見えない?システムに目を白黒させ、主語が抜ける日本語会話に「えっ、それは誰が?どっちの方が?」と聞き直してばかりいる。


生まれ育った土地でにわか外国人になってしまった自分を痛感するのが、こんな時だ。ゆく先々で関わる人々は、島んちゅの顔をした私が時々おかしなウチナー標準語を喋り、当たり前のことが分からない様子をみて、いぶかる顔で私を見る。 

あぁ、ハワイや南米の日系人が初めてルーツの日本を訪れる時、逆出稼ぎでやってきて日本生活を始める時、こんなふうにぶきっちょで体裁の悪い思いをするんだろうな、今私が経験しているのは、彼らのそれの何十分の一くらいなんだろう..? 同民族の顔をした「日系人」という外国人が経験する不憫さが、何度も私の頭をよぎった。


滞在先の首里からバスを乗り換えで行くには遠すぎる沖縄島北部——ヤンバルが見たいという私のリクエストに答え、ある晴天の日に兄が車を出し、母と私を名護、本部方面、小宇利島周辺に連れていってくれた。ウチナーの原風景を思わせる北部ドライブは心がなごむ。あいにく、期待のやちむん喫茶は定休日で閉まっていたが、途中とても興味を注がれるものを発見したのだ。

いったいこれは何???
私はこういうときに心が躍る。得体の知れない建築物や廃墟が大好きだからだ。兄に車をとめてもらって、異色を放つ不思議な小建築物を調査する。

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ぐるっと前方を一周回って観察する。
かなり前か、店をたたんで廃墟になってしまった?飲食店のようだ。

看板には大きくブラジリアン・カラーでCafé Brasilと書いてあり、素人大工で建てられたような雰囲気が突発的で、ファンキーな味を醸し出している。 道路を向いて突き出している部分はカウンターだったらしく、その前にスリリンガル(3カ国語)の小さな看板が標識風に立っている。上からポルトガル語で“Gaixinha obrigado”、真ん中が日本語で“小銭ありがとう”、一番下にハングル語で“Gam Sa ha mi da”と書いてある。その側に、これまた手書きの立て看板があってそのサイドには、”頑寿(がんじゅ)よもぎパン百年”と書いてある。いったいなんじゃ、こりゃ〜...?? こんなディテールは私のような異色好き者を興奮をさせる。まるでチャンプルー文化遺跡との第3次接近遭遇だ。ドアらしきものをいくらか確認したが、どうみてもしばらく開き閉めしたことがなく、閉店後ほったらかされてしまった飲食店の跡といった感じだ。( 営業中だったらゴメンナサイ!)


兄の話によると、名桜大学もすぐ近く、ブラジル移民帰りのウチナーンチュが切り盛りしているブラジル食堂も、もうちょっといった先にあるそうだ。名桜大学はポルトガル語科があり、沖縄系ブラジル人が多いロンドリーナの大学と姉妹大学かなんかで、留学生プログラムがあると聞いている。あたりで聞いてみれば、すぐこれがが何であるのか/あったのかわかるだろう。


近所に聞き回って解明したい謎ではあったが、兄と母と私はお腹がとても空いて、むぬかんげ〜ならん(考え事ができない)限界状態。お得意の探偵ごっこはあきらめてすば屋探しに向かうため車のエンジンをかけた。


“Café Brasil(カフェ ブラジル)“を後に、青空の下で緑がうっそうと茂るヤンバルを駆け抜ける中、いつしか私は、ブラジルで会ったウチナー・ブラジル人、マルセーロのことを思いだしていた...。


PS. この場所に行ったのは後にも先にもこれが最後でした。 誰かこの建物について知っていたら、おしえてください!


LA GOYA
北米在住うちなーんちゅー、女性。
60年代、米軍統治下の琉球政府のもとに那覇で生まれる。
対照的な二つの町、コザ/首里育ち。

うちなーんちゅと世界に散らばる日系人の
多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント提唱者。

2007年04月07日

The Sugar Island--砂糖島への想い(1)「Kozoさんとの出会い」

私がKozoさんのことを初めて知ったのは、去年の夏だった。夫と一緒にウチナーハワイワン3世であるA氏と、ウクレレ奏者ジェイク・島袋のコンサートで落ち合った時のことである。

そのライブハウスでは、観客はテーブル挟み向かい合って座るセッティングになっていて、演奏前には食事やお酒を楽しみながら、もうすぐ目の前に現れるアーティストを、期待と興奮の中で待ちわびる。そんな中、同席者は見知らぬ同士でさえ会話に盛り上がるから、その晩もA氏とテーブルを囲んでユンタクが弾んだ。音楽の話しからレキオ・チャンプルー村構想の話しになり、そこから沖縄系ラティーノの話しになり、そして存在がほとんど知られてない沖縄キューバ移民の話しを私が持ち出したとき、A氏が言った。
“oh, yeah, speaking of Okinawan-Cabans, in fact, I know some here in Washington.” あぁそうね、沖縄系キューバ人といえば、ここに住むウチナー・キューバンチュを知っているよ、と言うのである。私はそれを聞いたとき、歓喜のあまり飛び上がってカチャーシー・サルサ?を踊りだす一歩手前だった。


私が音楽と踊りに日々が溢れるという島キューバに恋い焦がれるになってから、もう何年の月日が流れているだろうか。北米の住民になったがために、自分にとってこの島が一番近くて一番遠い禁断の島となってからは、すでに18年が経っていた。
この共産主義国の孤島に(実際にはそれほど孤島でもないことが次第に分かってくるのだが)わずかに残る沖縄移民一世と、閉ざされた島でキューバ人として生きて行く彼等の子息の存在を知るようになってからは、行ったこともない島に住むちょ〜で〜達に、勝手に慕情を募らせるようにまでなっていた。 だから、ウチナー・キューバンチュが近くにいるというニュースを聞いて心が飛び跳ねんばかりだったのだ。 ”it’s Kozo-san and his family, ” と A氏が続けた。それが、私がKozoさんのことを知ったきっかけだった。


時は1937年、Kozoさんはキューバへやって来た。彼が生まれたのが1920年だったから、17歳の時である。沖縄の漁猟どころとして知られる糸満出身の彼も、代々からの漁師の家系に生まれ育ったのだろうか。何ともスゴいことに、Kozoさんは 叔父さんと二人で自らの漁船で糸満を発ち、糸満からハワイ、ハワイからカリフォルニア、カリフォルニアからメキシコ、メキシコからパナマ海峡を渡ってキューバに到着したというのである。


糸満漁師は沖縄では海人(ウミンチュ=海の民)と呼ばれ、彼等の勇敢さは広く知られているが、とにかくこれは驚きの話しだった。 一般的な契約移民や自由移民の枠を超えていて、全く自分の意志と漁師としての航海術で沖縄からキューバまで小さな船でやってきたという、私にとっては今まで全く聞いたことのないタイプの移民だったのだ。あぁKozoさんて、なんてカッコいい人なんだろう・・!!!♥❤


彼の話しにすっかり心を奪われてしまった私は、間もなく始まったジェイクの演奏にしばし集中出来ずにいた。 夫とジェイクには悪いのだが、、しばらく彼のウクレレをバックグランドに、てぃさ〜じ〜を頭に巻いて日焼け顔の颯爽とした17歳のKozoさんが、ハワイ島を背にし、太平洋を壮快に横断していく姿を思い浮かべていた。それはほとんど恋のようなものだった・・・。(続く)


さてKozoさんは、どっちでしょう・・?
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LA GOYA
北米在住うちなーんちゅー、女性。
60年代、米軍統治下の琉球政府のもとに沖縄に生まれる。
対照的な二つの町、コザ/首里育ち。

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多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント提唱者。

2007年05月15日

5・15

生まれたのは那覇であったけど、その後まもなく父が嘉手納基地勤務になったためコザへ引っ越したので、私の頭に焼き付いている幼少の思い出は、全部コザである。

当時、夜の社交街として繁栄していた中の町に小さな間借りの部屋を見つけ、私の家族は生活していた。トイレが家の外にあり、それがまだ珍しくなかった時代である。あの頃は基地勤務が給料も待遇も一番だった。ハワイ移民帰りで顔のきく親戚の紹介で米国大企業・ジェネラルモータース勤務になった父の給料は$100をちょっと超える額、当時の物価ではなかなか良い給料だったらしい。そんな仕事のきっかけがない限り、保守的な首里の家系に育った父は絶対にコザのような町へ移ったりなどしなかっただろう。

その頃、沖縄の基地の町々はとにかく荒れ狂っていた。ベトナム戦真っ最中で、米軍統治にあった沖縄から沢山の兵士がベトナム激戦地に送られた。まだ徴兵制度が行われていた時代である。いつ戦場に送られ、帰って来れない身になってしまうかもしれない運命に翻弄される米兵で夜な夜な路上はごった返し、コザの住民はみなその緊張感を体で感じ取っていた。(そんな中で大儲けをしたコザんちゅもいっぱいいたようだが、この話は又別の機会にしよう。)


当時、私は近所の子供達にもれず、米兵を見つけては物乞いをしていた。アメリカーを見ると走り駆け寄って、「ギミ・マニー、ギミ・ペニー!」といって両手を出す。かなり高い率で、彼等はポケットに手を突っ込んでペニーや5セントをくれたように覚えている。 当時塩せんべいは1セント、5セントでチューインガム、10セントあればチョコレートが買えたと記憶している。運良く米兵から小銭を手に入れた時には、近くのいっせんまちや〜(駄菓子屋)に走りこんで、店頭にならんだジャンクフードにちむどんどん(ワクワク)し、今日は何にしようかな〜と心が踊る。しかし大抵の場合稼ぎ?は10セント以下なので、塩せんべいとチョコ・クリームがレギュラーだったけど。


塩せんべいをかじりながら幸せいっぱいに家に向かうとき、近所のおばさん達が道ばたでたむろしていて、誰々のハニーのマイキーは、来週ベトナムに送られることになったとか、どこどこの旦那のチャーリーは帰らぬ人になったなんて話をしていたりする。 そんな時、いつ戦場に送られ死ぬかもしれない運命にある米兵に、ねだってもらった小銭で駄菓子を買って食べている自分の良心が子供心にもとがめる。 それでもーー食べかけの塩せんべいはきちっと最後まで食べる。家に帰れば戦争中ヤンバルに逃げて、いつも空腹でごはんをお腹一杯食べる夢ばかりみて、蝉やバッタまで捕まえて食べていたと言うのが口癖の母が待っている。だから、この塩せんべいだって食べきらないわけにはいかないーーなんて子供心にも自分に言い訳をする。私の脳裏に強く残っている幼少の思い出のひとつである。


5月15日ー−35年前、沖縄が日本復帰した日。毎年この日がやって来る度にそんな幼少の思い出が蘇ってくる。

みなさんは今日、何を考えてますか?


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(写真=当時の写真。ムーンビーチにて)

LA GOYA
北米在住うちなーんちゅー、女性。
60年代、米軍統治下の琉球政府のもとに沖縄に生まれる。
対照的な二つの町、コザ/首里育ち。

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多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント提唱者。

2007年06月15日

Mission:Almost Impossible---ウチナー・キューバンチューの移民百周年祭(1)

キューバのウチナンチューが、今年移民百周年目を迎えると聞いたのは、確か去年のくれか今年の年明けだったと思う。10月に、キューバにいる県系の皆で集って、祝賀会を開く予定であるという話しだった。お知えてくれたのは、メキシコ在ウチナーンチューのトミヤマケンタさん(メキシコ在)。富山さんは、琉球大学時代にスペイン語を勉強しながらキューバの沖縄移民史に入り込み、その後のめり込んでキューバ留学で勉強を続けながら、現地のウチナンチュ達と交流を続けてきた。2001年以来、世界ウチナンチュ大会やジュニア・スタディーツアーなどで通訳や橋渡し役としてずっと陰でサポートしてきたに〜しぇ〜(若者)である。


ウチナー・キューバンチューが移民百年目を迎えるという話は、私にとってその時が初耳だった。こんなおめでたく大事な節目を迎える彼らの事が、今までほとんどマスコミで取り上げられていないことに、正直いって驚いた。というのも、日系移民国はどこも次々に百周年を迎え、私自身2006年・1月にペルーの盛大な百周年祭に参加してきたばかりだったし、2008年にはブラジルとアルゼンチンも沖縄系独自の百周年イベントを進めていて、関連メディアはそれらのニュースで賑わっていたからだ。キューバの日系移民は1998年に日系移民百周年祭を開催したことは知っていたが、日系キューバ移民のマジョリティーは沖縄系である。だから、これまで沖縄系移民社会の動きを追ってきて、マジョリティーである沖縄系の百周年に、世界からウチナーンチュがキューバに総出しての祝賀会の予定がないのも、なんだかおかしな感じがしたのであった。


きっとそれは、キューバへの移民が他国に比べ著しく少ない事、国情がら沖縄県人会も正式な団体と認められていず活動自体も難しいこと、そしてキューバの特殊な事情が外界への情報伝達を困難にしていることが主な原因だったのだろう。北米の住民になったがゆえ、20年近くもキューバに行く夢を叶えられずにいた私だから、この話しを聞いた時、100年に一度の歴史的なモーメントにこそ何とかしてキューバへ行きたい・・!そうだ、この機会にアメリカからキューバのウチナーンチュに会いにいく初のウチナー団体を立ち上げて百周年を一緒に祝おう!!!と奮い立ったのが、私とキューバ・沖縄百周年祭との関わりの発端であった。


北米で生活した経験のない方達にはピンとこないかも知れないが、キューバはアメリカから一番近くて、一番遠い国だ。フロリダの端、キーウエストまで行けば見えるというキューバ島なのだが、社会主義国になってから、北米はキューバと国交がないばかりか経済封鎖や対政策をとっている。一般の米国住民はいくらかの例をのぞいて渡航が禁止されている。米国籍じゃなくても、私のように永住権を持ってアメリカで暮らしている日本国籍者にも、同じ法律がアプライされるのだ。


なので北米から団体としてキューバ訪問を正式なルートで実現させるためには、法的問題をクリアし、米国から渡航許可を得なければならない。これはかなり高いハードルである。しかし、北米ウチナーンチュのキューバ渡航の困難さもさることながら、キューバのウチナーンチュの皆さんは、端から見れば当然の権利と思われる自分達の祝賀会の実現にさえ、悪戦苦闘していた。そもそもキューバでは、大勢の人が集会を持つこと自体が困難であるし、集りを持てる場所を探し確保するのも難しい。沖縄県人会どころか日系協会まで国から正式には認可されていないというし、国外に案内状を送るにも何ヶ月もかかるというし、インターネットは一般人の場合、ごく一部の人達がメールのみ使える状態である。またあちらの経済システムは、資本主義国に住む私たちの思考回路の全く外のものである。


全てが困難を極めていたので、少しでも役にたてればとお手伝いをかって出た私たち(トミヤマ、オオシロ、私)は、現地での視察と話し合いのため、100周年に先立ってキューバを訪問することになった。5月30日から6月4日まで、とうとう現地視察が実現し、キューバのウチナーンチュは私たちを暖かく迎えてくれた。短い期間ではあったけど、一緒に大使館など政府機関への協力願いに出向き、イベントプログラムの重要ロケーションの視察など、朝から晩まで走りまわるのアクション・パック。 連日連夜皆さんのお宅でご馳走になり、出会いがいっぱい詰まった、実りの大きい意義深い視察滞在となった。


キューバのウチナーンチュは、現在、百周年実行委員会を正式に立ち上げ、10月27日の沖縄移民100周年祝賀会の実現と成功のために走りまわっている。大事なのは、祝賀会の豪華さや参加者の人数よりも、努力の質と意義ある交流だ。「結果も大切だが、プロセスこそ大切なのだ」と声高に言えるのが、今回のウチナーキューバの百周年祭なのではないかと思う。
                                              
                                               
*沖縄キューバ移民百周年祝賀会は、キューバ沖縄県人会の主催で、10月25、26、27日の三日間に渡って開催されます。私自身はお手伝いさせてもらっているサポーターの一人であり、沖縄レキオ・チャンプルー村の主催・企画ではございません。お問い合わせはキューバ国外のボランティア・サポーターにご連絡ください。

スペイン語の問い合わせ/トミヤマ: cubanchu@hotmail.com
プログラム・現地でのコーディネイト/オオシロ:oshiro@mexicokanko.com.mx
北米から参加希望の方は/アッコ:tinsagu@gmail.com


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青年の島にて歓迎夕食会ーーーキューバの首都ハバナからプロペラ機で約30分南下したところにある島で、元は「松島」と呼ばれ、キューバの日系人には縁の深い島である。


LA GOYA:プロフィール
北米在住うちなーんちゅー、女性。
60年代、米軍統治下の琉球政府のもとに沖縄に生まれる。
対照的な二つの町、コザ/首里育ち。

うちなーんちゅと世界に散らばる日系人の
多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント?提唱者。

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