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      <title>ちゃんぷるー・あんてな</title>
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      <description>チャンプルーな視点であなたが書く </description>
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         <title>女たちのブラジル移住史</title>
         <description><![CDATA[みなさーん！！
ご無沙汰しております。ブラジル在住のAyumiです♪

最近、私の住む街Belo Horizonte市は、朝晩めっきり冷え込むようになりました。もうすぐ冬到来！
ブラジルというと、「年がら年中暑い」というイメージがあるようで、「冬にはダウンジャケットを着るのよ！」といっても、日本のAmigoたちに信じてもらえないんですが、北部や北東部を除く地域では、冬もしっかり（？）冷え込みます。
特に南部なんかは、日本の冬なみに寒くなるらしいです！ところで、うちなーんちゅのオットに聞いた話ですが、沖縄の冬ってマフラーすら要らないって本当ですか？?私、寒さが天敵なので、そんな沖縄に早く舞い戻りたくなりました・・・。

さて、今回は、一冊の本を皆様にご紹介しようと思います。
『女たちのブラジル移住史』監修：日下野良武
この本では、実際にブラジルに移住された、さまざまな世代の6人の女性の手記が紹介されています。その6人の女性とは小野政子さん（８５）、中田みちよさん（６６）、斎藤早百合さん（７５）、土田町枝さん（８３）、大槻京子さん（６０）、松本純子さん（４２）。現在もブラジルにおられる方々です。


移民の歴史って、私はそれまで、「年表」に書かれたような、味気ない事実ばかりをなんとなく知っているだけで、その裏側にある移民の方々の苦労だの、困難だの、あまり考えたこともありませんでした。反省。
その分、この本を読んだときの衝撃はスゴかったです。
一言で言えば「壮絶」！！それしか言葉が出てこないほど！例えば最初に書かれた小野政子さん。幼い頃に両親に連れられ移住するも、極貧の生活の中、学校も行けずにキツイ労働ばかり。そんな生活を悲観して、大切な妹が自殺、その後も待ち受ける苦難の数々・・・
「私だったら絶対無理ムリ～！！」と思わずにはいられない、そんな女性達の苦労を知り、正直自分の甘さに深く反省・・・。
私の住んでいるところも、日本に比べたら不便で、例えば大雨が降るたびに停電し、管理人さんがケチって水道の元栓を閉めてしまったりするけど、でも電気や水道管自体がない町よりはマシと思うことにします！！！

移民の方々の、「本当の歴史」を知りたい方、是非読んでみてください。
読んで、何かを感じていただけると思います。

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         <pubDate>Sat, 24 May 2008 05:49:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title></title>
         <description><![CDATA[4月22日はアースデイ。地球の環境について考えようという日です。全国でいろいろなイベントが開催されているので、ニュース等で知っている方も多いと思 います。知らなかったあなた、今からでも遅くありません。子どもたちに綺麗な自然を残してあげるために、身の回りでできることを探してみて下さい。 

沖縄O.C.E.A.N.は、この日に沖縄県糸満市にある大度海岸で行われたビーチクリーンをコーディネートし、クリーンアップにも参加しまし た。大度海岸は数種類のウミガメの産卵場所として知られている、砂浜の綺麗な海岸です。地元の人が毎日犬の散歩がてら海浜清掃を行うので、ゴミはほとんど 見当たりません。 



しかし現在は、昨年の台風が運んできた大量の岩や古いサンゴ岩が砂浜を埋め尽くしていて、ウミガメが砂浜に上がってこれない砂浜になっています。地元の人々の手で、少しずつ岩を一箇所に集めているけれど、とても除去できない状態です。 
 


これらの岩は、コンクリート破片のようなものやサンゴ岩など。小さいものから2人で運ぶのがやっとという大きなものもあります。


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ウミガメを愛する地元の人々の手だけではとても岩を片付けきれず、どうしようかと悩んでいたところ、それを知った嘉手納基地の空軍に所属する若者10人が、ぜひ岩を片付ける手伝いをしたいと名乗り出てくれたので、アースデイ（4月22日）に除去活動を開始しました。 

前日の天気予報では曇りのち雨。しかし、やはり天気予報の当たらない沖縄。朝起きると晴れ。蒸し暑くなりそうな予感を感じながら、朝9時に集合。空軍ボランティアたちは既に集まっていて、手伝いに来た地元の人4人と一緒に除去活動を始めていました。 

写真を見てもらえるとわかると思いますが、さすがは軍隊。リーダーの指示によって、全員が1列に並んで岩をリレー方式で次々を手渡していきま す。細腕の女の子もいましたが、見かけによらず彼女もとっても力持ち！そして筋肉隆々の男性たちは、気温が上がってきたので途中からトップレス（？）にな り、弱音を吐くどころか時々冗談など言いながらいかにも楽しそうに作業をすすめていました。 

朝9時から午後3時頃まで、炎天下の下除去活動をしてくれた彼らに大きな拍手！！ 

今年は産卵に来るウミガメが増えることを期待します。5月頃からやって来るそうです。見に来る方は、大きな音を立てず、そして明かりも消して下さい。産卵を始めたら写真を撮ってもOKですが、なるべくフラッシュは控えてください。 

ちなみに、この海岸ではまだまだ岩を除去する必要があります。ボランティアをしたいという方、info@okinawaocean.orgまでぜひご連絡を！ 

実は、このボランティア活動を知った友人（外国人）が、こんな苦言を私たちに言ったのでした。 

「南部には、アメリカ人を連れて行かない方がいい。南部は戦争が一番激しかったところで、アメリカ人に対して強い恨みを持っている人たちがたくさんいる。彼らを尊重するなら、アメリカ人は絶対に連れて行くべきではない。」 

気持ちはわかります。でも、アメリカ人の全員が悪い人たちではない。今回のボランティアたちも、沖縄の人と自然が大好きで、普段沖縄にお世話に なっているから、そのお礼として何かしたいという気持ちで参加してくれました。平和の架け橋になろうとしている彼らを、アメリカ人だからという理由で拒否 してしまっていいものか。 

この間News23で韓国の大統領が言っていた言葉を思い出します。正確ではありませんが、このようなことを言っていました。「私達は過去を変えることはできないが、未来に向かって共に手を取り合って進むことはできます。これからは、そうした態度が必要なのです。」 

ビーチクリーンって、単なる海浜清掃活動ではないんですよ。ビーチクリーンを通して、平和を考えることにもなるんです。



きやすけ: プロフィール
沖縄生まれ北海道育ちのウチナーンチュ。 
各地を経て現在生まれ故郷の沖縄に戻る。



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         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 22:06:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>新しいステージへ！</title>
         <description><![CDATA[ -　沖縄系ブラジル人子弟たちによる琉舞・髪結いの舞台　-　 


玉城流扇寿会斉藤悟琉舞道場・小波流きからじ結い研究所（斉藤悟主宰）のおさらい会「島想てぃ遊ば」が、ブラジル沖縄県人会館大ホールで、2007年11月25日、午後四時から開催されました。 


本番は600人を超える観客がつめかけ、立ち見が出るほどの盛況ぶり。サンパウロの邦字紙やブラジル沖縄県人会の関係者からは、多くの賞賛の言葉をもらい、非常に高い評価を受けています。自分も微力ながらこのおさらい会「島想てぃ遊ば」に参加させていただき、非常に光栄でした。 


今日は、このおさらい会「島想てぃ遊ば」に参加した、斉藤悟の友人である一人の日本人留学生の立場から、このおさらい会「島想てぃ遊ば」の思い出を振り返りたいと思います。 


===＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝ 


ブラジル・サンパウロ生まれの琉舞の天才、斉藤悟に初めて会ったのは今年2007年の５月でした。僕のサンパウロ留学が始まったばかりのころ、沖縄県人会の琉球民謡コンクールの楽屋で彼に声をかけてもらった時のことをよく覚えています。 


サンパウロで知り合った沖縄出身の方と、日本人の方に連れられて楽屋に入り、彼を紹介してもらいました。沖縄への留学から帰ってきたばかりの斉藤悟くん、一見ブラジル人には見えない日本の若者のようなおしゃれな格好をしていたのが鮮明に記憶にあります。 


「うちなーんちゅですか？」 


この言葉に、一瞬戸惑いながらも、僕は自分の出自について話をしました。彼はここサンパウロでの沖縄文化の大きな担い手であることは前から知っていたので、彼のような人物に出会えたことへの嬉しい気持ちと同時に、沖縄の芸能や文化についてほとんど何も知らなかった自分が、彼に対して少し後ろめたいような、恥ずかしい気持ちもありました。 


それから何回か、彼と食事をしたり、彼の家に遊びに行くようになりました。そんなとき、彼からこの「おさらい会」の企画・運営に参加してみないか、との誘いがあり、自分は二つ返事でOKしたのです。 


当初この「おさらい会」という言葉からは、本番よりももっとこじんまりした、小さな規模の舞踊公演を想像していたのですが、準備段階でブラジル沖縄県人会側からの大きな期待お要望があり、県人会館の大ホールで開催することになりました。 


これは関係者・スタッフや舞踊の生徒さん、そして悟自身にとっても大きなプレッシャーであったと思います。教室を始めて間もない段階で、生徒と共に大きな舞台に立つこと。それは並大抵のことではなかったと思います。しかし、「大きな舞台でやるからには、絶対に成功させたい！」という気持ちが、全員の共通意識として沸き起こってきたのも事実です。とくに後半は、悟や生徒さんたちが中心となって、そんな気持ちを共有しながら、着々と準備を進めていました。 


僕は日本語のナレーション、脚本、プログラムの作成、日本語訳のチェックなどに関わっていたのですが、本番直前の数週間はほぼ毎日、悟の家（自宅兼舞踊道場・髪結い研究所になっている）に泊まりっきりで、ずっとプログラムの内容や、舞台の演出を練っていました。 


僕たちスタッフは、斉藤悟が沖縄への県費留学時代に見てきたもの、感じてきたもの、そして彼の口から出てくるアイデアやイメージ、そして彼の持つビジョンを、極力再現できるように何度も打ち合わせを重ねました。ブラジルで固定化してきた伝統的なやり方を変え、斬新な演出を考え出そうと、数々の新たな展開を試みようとしました。 


沖縄から持ち帰ってきたたくさんのプログラム・ビデオ・DVDを見ながら演出を考え、そして悟がお世話になった沖縄の先生たちから送られてきたメッセージ・激励の言葉を糧に、この公演のプログラムを作りました。 


忙しい準備に一喜一憂しながら、何度も徹夜を重ねてやっとできた舞踊の演出、プログラム。直後に迫った本番を夢見ながら、悟の家の小さなソファで雑魚寝をし、最後の仮眠をとりました。 


・・・そんな自分たちをずっと支えてきてくれたのは、準備のために家にお邪魔していた時に、いつもいつも優しく接してくれた悟のおば〜、おじ〜、両親、妹さん、そしてご近所の一世のおば〜たちでした。 


実は一番僕の印象に残っている時間は、リハーサルや音響の録音の時に、いつも差し入れを準備してくれる一世のおば〜たちに囲まれて、簡単なうちなーぐちを教えてもらったり、ポルトガル語や日本語・うちなーぐちを混ぜながらゆんたくしている時間でした。 


そんな心休まる時間や、自分たちを支えてくれる人たちがいなかったら、このおさらい会「島想てぃ遊ば」は実現できなかったでしょう。 


実は僕、一人の日本人留学生として、この公演のパンフレットの一部に記事を書かせてもらうことなりまして、そんな感謝の気持ちを「おさらい会について」という文章にまとめ、言葉を寄せました。ある意味、スタッフとしての自分の役割はここでほとんど終わっていたのかも・・・・。 


・・・そして、待ちに待った本番。僕は疲れがピークに達していて、実はあまり記憶がありません。苦笑 


そして、次に記憶にあるのは、本番終了後の特別出演の先生方、そしてお世話になった悟の御家族への、悟自身からの花束の贈呈の時です。一人一人に花束を渡しながら、アブラッソ(抱擁)していく途中で、悟は感極まって涙を流しました。そのとき、会場は雰囲気は一体になったのを感じました。自分もこの光景をすぐそばから見ていて、強く心を動かされたのを覚えています。 


このとき、近年ブラジルでの琉球芸能の隆盛を影で支えてきた、沖縄系の人たちの、「人と人の結びつきの強さ」というものを、本当に強く感じたのです。 


===＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝ 


そして、本番終了後。いろいろな人から「ナレーションよかったよ！」と声をかけてもらいました。 


留学が始まってから半年間、悟やみんなとコツコツ進めてきた準備が、本当にあっという間に終わってしまって・・・達成感や充実感もあり、放心状態でもあり・・・。 


とにかく、一瞬にして「腑抜け」になってしまった自分。笑 


もう一度、このおさらい会「島想てぃ遊ば」に託したテーマを載せて、この記事を終わりたいと思います。ここまで読んでくれた皆さん、どうもありがとうございました。 


=====＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝ 


『島想てぃ遊ば』 


沖縄の方言で「島」とは、出身地や生まれ育った地域、故郷（ふるさと）の事。 


沖縄とブラジルはこんなにも離れていますが、「島」を愛する気持ちは誰もが同じだと思います。 


あなたの故郷にがじゅまるの木はありますか？ 


あなたの故郷にキレイな海はありますか？ 


あなたの故郷に大切な人はいますか？ 


あなたの「島」はどこですか？ 


・・・それぞれの「島」を思い、歌い、踊り、この時をともに楽しみましょう！ 

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なか：プロフィール
祖父が沖縄・宜野座村、祖母は大宜味、僕は埼玉、所沢生まれのウチナー３世、現在ブラジルに留学中。 名前が三文字なので、よく中国・台湾系？と間違えられる。外国語大学で中国語を勉強していましたが、そこでブラジル音楽にドップリはまり路線変更。中南米うちなーんちゅについて勉強することに。サンパウロに到着後、海外で活躍する客家(ハッカ)とウチナーンチュたちに深く感銘を受ける。ここ３年は浅草カーニバルにも打楽器隊の指揮者や弦楽器の奏者として出場。日本のサンバを応援します◎

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         <pubDate>Tue, 04 Dec 2007 21:54:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>サッカーの試合！</title>
         <description><![CDATA[みなさーん！

ご無沙汰しております。
Brasil在住Ayumiです。


こちらは、季節でいいますと一応今は「冬」
なんですが、はっきり言って
暑い！
ですよ。

日中は30度〜34度ぐらいになり、
タンクトップで歩いても汗がダラダラでます。


Ayumiと夫の住むBeloHorizonteという街は
高原地帯でして、
朝晩はかなり冷えます。

だから一日で冬→夏を繰り返す、不思議な気候です。


さて、去る日曜日に、友人夫妻に誘われて
サッカー観戦してまいりました。

夫はサッカー大好き人間！なのでウキウキでしたが
Ayumiは、ルールはだいたいわかるもの、
「玉蹴りなんぞ観てなにがオモロイのかしらん」
ぐらいに思ったわけです。


でも、約2年ぶりにサッカー観戦をするとあって、
当日はノリノリで行って来ました！

場所はMineiraoという愛称の、
ブラジルで3番目に大きいサッカー場です。

今回は
Rio de Janeiroが拠点のフルミネンセというチームと、
ここBeloHorizonteは拠点のクルゼイロというチームの試合。

勿論、ホームであるクルゼイロのファンがほぼ９９％というなか、
友人夫婦の夫のほうがリオ出身ということで、

なんとアウェイ席に座るハメに・・・・


フルミネンセのサポーター、多く見積もっても100人。
対するクルゼイロのサポーター、少なく見積もって1万人。


すでに弱気・・・・


試合開始後は、サポーターの熱気に呑まれて
あっという間の1時間半でした。


ブラジルのサポーターはすごいです。
怒鳴るし叫ぶし飛ぶし歌うしキレるし・・・・


実はここの球技場、以前は場内でビールを飲めたんですが、

あまりにサポーター同士のケンカが多く発生するために
アルコールの販売、飲酒が禁止されました。

それだけ激しいんですねー、サポーター！！


試合もおもしろかったけど、
私が気に入ったのは、
球場内でしか買えない、レアな名物
「Feijao Tropeiro」です。
ここの地域の料理の一つなんですが、
この球場内で売られている「Feijao Tropeiro」は
美味しいと評判！
豆と、マンジョッカ芋の粉末、ベーコン、野菜で作られています。

本当に美味しかったです♪♪

また行ってもいいかなーと思いました。
ただし次回はホームの試合がいいな・・・・



写真は、試合時の球場内、それから名物の
「Feijao Tropeiro」です！！
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AYUMI：プロフィール
音楽と美味なものが好きな静岡出身26歳。
ブラジル在住もうすぐ三年。
訪沖歴は五回
うちなーんちゅのペット、もとい恋人と生活中。
沖縄もブラジルも人があったかくて大好き！
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         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/09/16/post_22.htm</link>
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         <pubDate>Sun, 16 Sep 2007 01:01:13 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>客家と沖縄（２）</title>
         <description><![CDATA[世界各地に離散し、故郷を離れてたくましく生きる移民たち。僕がこの留学で追いかけているのはとくにアジア系の日系移民と中国系移民です。


その中でマイノリティとしての厳しい歴史と経験を歩んできたのが、「日系」の中の沖縄県系人と、「華僑」の中の客家系家人だと言えます。彼らは一言で言ってしまえば「日系人」と「華僑」ですが、この二つの存在、一見違うように見えて実は似ているところがたくさんあるのです。


今日は、彼らの「助け合う心」、相互扶助の精神について。


＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝


世界のウチナーンチュたちの故郷である沖縄。沖縄系移民と彼らの故郷とのつながりは非常に強く、戦前・戦後ともに彼らによる多くの送金によって、疲弊していた母県母村の経済は何度も危機を逃れてきました。


大正末期から昭和初期にかけては、「ソテツ地獄」と呼ばれるほど経済的に落ち込みが激しかった沖縄県。この時期、海外のウチナーンチュからの送金額は1923年（大正12年）で約86万円と記録されていますが、これは当時の県歳入総額の44.6%にも及びます。その後の数年間にわたり、沖縄県の経済は沖縄県出身移民に仕送りによって支えられました。


そして太平洋戦争でも日本唯一の地上戦で壊滅的な被害を受け、その後の米軍統治下でも深刻な物資不足に悩んでいた沖縄。これに対して、海外在住のウチナーンチュたちは救援団体を組織し、「戦災救援運動」と称して多くの救援物資を送りはじめます。この敗戦・占領による悲惨な時期にも、海外各地に散らばったウチナーンチュたちから沖縄へ温かい救援の手が差しのべられました。


と、ここまで書いたことは沖縄や世界のウチナーンチュへ関心のある方はご存知のことだろうと思います。そして、今回僕が試みたいのは、このような沖縄系移民の故郷への援助と、客家系華人による故郷への援助のあり方を比較することです。そして、それを現在世界に広まったウチナーンチュのネットワークと客家を中心とした華僑のネットワークを、沖縄の経済的自立ため、そして貧困にあえぐ客家の故郷の復興ために活かすということをできたらいいな、と考えています。


客家人はもちろん沖縄県系人とは違う歴史を歩んできますが、故郷や同胞が苦しんでいるとき、移民先で稼いだ自分の大切なお金を投げ打ってでも同胞に救いの手を差し伸べる、ということをこの数百年間、当然の事して行ってきました。これは沖縄と客家の大きな共通点だと思うのです。


西晋末の「永嘉の乱」から1700年間、古代中国の中心であった中原から逃れ、南へ移動し、そして数世紀のうちに世界各地へと移民した客家。今日では世界中の華僑の中でもリーダー的な役割を担うようになり、その結束力と行動力・経済力は全世界の注目を浴びています。　


客家の故郷である江西省や福建省、広東省の農村では、長い間国民党・共産党の間で行われていた内戦（国共内戦）の戦場となり、甚大な被害を受け、これにより社会的、経済的発展は周辺地区よりも著しく遅れました。そんなとき、彼らを救ったのは海外に暮らす同胞の客家たちでした。海外の客家たちが荒廃した故郷に多額の送金をして、故郷の復興に大きく貢献しているのです。


ところで、客家の援助の方法について少し面白い話が。海外に出て成功した客家が故郷に錦を飾るとき、まずするのが「学校を一つ贈る」ことだそうです・・・・（！）　これは客家人の特徴として、「子弟の教育を非常に重視する」という点が色濃く出ている援助の形と思います。


このように客家系華人は、自分が儲けたお金を、商売や自分の貯蓄に回すより、故郷への送金や、学校・体育館・図書館・公民館などのさまざまな施設を建設することに惜しまず使う傾向があります。


たとえば、毛沢東が主導した「文化大革命」で中国大陸が全国的に荒廃し、とくに客家居住区に多かった私立の学校で「知識教育」が全面的に否定された時代でも、海外からの客家の故郷への仕送りや学校建設は止まなかったというほどです。


そして1990年代から、鄧小平(彼も客家人)以来続けられてきた改革・開放政策の進展によって、中国の沿岸部にを設けた「経済特区」や、客家の出身県である広東省・福建省に、海外で成功した客家たちが莫大な投資を行っています。その結果、広東省と福建省は北京中央主導の共産主義体制の意向の範疇を超え、ものすごいスピードで発展し続けています。これは単に先ほど述べた客家の「相互扶助」としての役割ではなく、「市場」としての中国・利益の見込める投資という意味合いも含んだものです。


そしてそれだけでなく、多くの客家の故郷である中国の南方地帯には、今や対岸の台湾や香港をも巻きこみ、「華南経済圏」という事実上の独立した経済のテリトリーが姿を現しつつあります。台湾と中国・香港はそれぞれ政治的に異なる立場をとっていますが（とくに中国と台湾は互いに反発しあっていますが）、中国・台湾・香港にそれぞれ暮らす客家人たちが、イデオロギーにとらわれることなく、中国と台湾・香港をつなぎとめる役割を果たして来たのです。


そして今日ではその努力が報われ、中国・台湾両岸の人的・経済的・文化的交流が活発に進められています。そしてその時代の流れの中で、海外に暮らす客家系華人たちが、中国大陸の故郷へ莫大な支援と投資を続け、彼らの故郷はその援助をきっかけに復興・発展を遂げています。


このように、自分たちの故郷を想う心と同胞を大切にしようという気持ちは、客家人とウチナーンチュの大きな共通点だと思うのです。離れなければならなかった故郷への強い思慕と、移民先での強い結束力・相互扶助。これは同時にそれぞれが歩んできたマイノリティとしてのつらい歴史の裏返しでもあるのです。


故郷を離れ、世界に散らばった者たちが、故郷をしのんで集う場所。それは移民先での小さな「会館」や、「県人会」といった小さなものかもしれない。もしかしたら、「家族」という単位のもっともっと小さなものかもしれない。しかし、そのように集い、憩う場所はウチナーンチュにとってのれっきとしたもう一つの「オキナワ」であり、客家人にとっての「中原」でもあるのではないか、と思います。


そんな世界中の「複数の故郷」が、数年に一回実現する場所。みなさんがご存知の、「世界のウチナーンチュ大会」。そして、二年に一度開催される「世界客家大会」。


え！？客家大会？そんな大会があるの？と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこの「世界客家大会」、ウチナーンチュ大会よりも先輩なんです。


もともと世界のウチナーンチュ大会は、その先駆けとなったWUB(ワールドワイド・ウチナーンチュ・ビジネス・アソシエーション)という団体がユダヤ系・客家系のネットワークや会合をヒントにして提案したものが元になっているので、沖縄と客家が似ているということ、それはある意味当然のことかもしれません。


最近では、ボーダレスな国際化の時代に即して、沖縄県系人の世界的なネットワークが組織されるようになりました。きっかけはやはり、1990年（平成2年）に沖縄県で開かれた「第1回世界のウチナーンチュ大会」でした。17カ国から約2,400人もの沖縄県系移民が一堂に会して、県民と多角的な国際交流をおこなうというものです。1995年（平成7）の第2回大会には25カ国から約3,800人が参加がありました。そして2、3世のジュニア・サミットなどもおこなわれ、回を重ねるごとに交流の輪は大きく広がっています。


そして将来の沖縄にとって非常に有望な団体として取り上げたいのが、先ほど書きましたWUB(ワールドワイド・ウチナーンチュ・ビジネス・アソシエーション)という団体です。WUBは非営利団体として1997年（平成9年）9月にハワイで結成され、2年間でハワイ・ブラジル・アルゼンチン・ボリビア・ペルー・北米・東京・香港・沖縄の9支部が設置されました。WUBは世界のウチナーンチュを中心にネットワークを形成することにより、ビジネス・文化・教育交流と相互の親睦を図ることなどを目的とするもので、とくに世界各国で活躍する県系人の人脈を生かし、沖縄にこだわったベンチャービジネスを展開することを支援しています。

 

そしてもう一つ将来の沖縄にとって有望な団体があります。世界各地にある「崇正会」。と呼ばれるものです。これは客家の「県人会」的な集まりで、さまざまな形の相互扶助を行っている団体です。日本には東京・大阪・沖縄にあり、日本国内に暮らす客家の方たちの憩いの場ともなっています。この崇正会が中心となって、客家と沖縄の相互交流が進んでいるのです。


沖縄は、日本の国境ラインの中にありながらも独自の地理的なアドバンテージを持っています。それは、中国文化を日本にもたらしてきた沖縄の歴史を見れば一目瞭然です。そして沖縄は今、台湾・中国・との地理的・歴史的な交流を取り戻し、「環東シナ海経済圏」として発展しつつあります。そして、近いうちに世界の客家たちが鍵を握る「華南経済圏」へと合流する可能性もあるのではないでしょうか？


もしある日、経済的な実力を持った客家人が沖縄を訪れ、その魅力を充分に理解してくれたならば・・・・それはきっと遠い夢ではなくなることでしょう。そしてそれは沖縄にとってのよい未来へと必ずつながると確信しています。


時代は今、ディアスポラから希望へ。


苦しい歴史を超え、世界に散らばったウチナーンチュと客家人たち。異国で助け合い支えあって生きてきた彼らが、言語の違いやイデオロギーの対立を超え、一つの「場所」へ合流する。それは今、ただの夢ではなく、現実となりつつあるのです。


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<img alt="liberdade2.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/liberdade2.jpg" width="295" height="394" />
ブラジル　サンパウロ市にあるリベルダージ。”日本人街”と呼ばれていたこの区域は、近年ではコリアンやチャイニーズも加わり“東洋人街”に変貌・・・！

<img alt="%E3%81%AF%E3%81%A3%E3%81%8B.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/%E3%81%AF%E3%81%A3%E3%81%8B.jpg" width="400" height="269" />
客家の町・・・

<img alt="East_China_Sea.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/East_China_Sea.jpg" width="400" height="355" />
琉球王国という交易国家として栄えた沖縄の位置ーー日本地図と端っこですがこうやって見ると・・・


なか：プロフィール
祖父が沖縄・宜野座村、祖母は大宜味、僕は埼玉、所沢生まれのウチナー３世、現在ブラジルに留学中。 名前が三文字なので、よく中国・台湾系？と間違えられる。外国語大学で中国語を勉強していましたが、そこでブラジル音楽にドップリはまり路線変更。中南米うちなーんちゅについて勉強することに。サンパウロに到着後、海外で活躍する客家(ハッカ)とウチナーンチュたちに深く感銘を受ける。ここ３年は浅草カーニバルにも打楽器隊の指揮者や弦楽器の奏者として出場。日本のサンバを応援します◎]]></description>
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         <pubDate>Fri, 31 Aug 2007 21:28:59 +0900</pubDate>
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         <title>沖縄と客家①　ことば編</title>
         <description><![CDATA[世界各地に離散し、故郷を離れて生きる人たち。沖縄・客家・ユダヤ。


その中でもとくにアジア系の客家と沖縄にターゲットをしぼり、客家系華人と沖縄県系人のコミュニティのあり方、ネットワーク、彼らのアイデンティティと伝統文化継承への取り組みなど・・・・それぞれの共通点と相違点を考え、互いの将来に向けてのよい連帯関係に向けての提案をする・・・


しばらく自分の勉強ではこのテーマを貫いていこうと思います。


今日は、客家人とうちなーんちゅのひとつの大きな共通点でもある「ことば」について。


<img alt="before%20the%20Trip%20009.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/before%20the%20Trip%20009.jpg" width="150" height="113" />


客家の言葉である客家語は、中国語の方言の中のひとつ。


現在多くの人が中国語として学習している共通語は、普通話(プートンホァ)とよばれる、北京の言葉をもとしたもの。その他の大きな方言には、上海語や、福建語、香港や広州で話されている広東語などがあります。


方言といっても、中国はデカい。それぞれの地方の言葉で話し出したら、意思疎通はかなり難しいのが実態です。これは日本の「方言」の規模や感覚では計れないもので、僕の個人的な感想からすれば、中国のそれぞれの地方にある方言は、互いに全く違う言葉ですから、地方が違えば国が違うようなもので、よその地方のおしゃべ りはほとんど何を言ってるのかわからない・・・・。それはきっと方言という枠を超えて、「外国語」とも呼べるくらいの感覚なんじゃないでしょうか。


しかし、幸いどの地方の言葉も漢字を使って表記できるため、全部をひとくくりにして「中国語」というカテゴライズができてしまう・・・・。そのため一応それぞれ全部が「中国語」ということになっているというわけですね。客家の言葉、「客家語」もそんな大きな中国の方言のひとつとしてカウントされています。


清代から中国政治の中心であった北京。南洋に面し、海外貿易、文化・経済の窓口として莫大な富を築いてきた香港。それぞれ遠く離れた場所であり、北京であれば北京語、香港であれば広東語が日常的に用いられています。


北京語の話者であれば、広東語を習得するのは大変。広東語を母語にする人も同様に、北京語を完璧に習得するのにはかなりの労力が必要とされます。そのため、中国の国内の移動であっても、彼らは言語の壁を目の当たりにするわけです。


特に田舎から出てきた人たちは、その都会の言葉を流暢に話せないと、生き残っていけない。中国全土の共通語として、普通話あるとはいえ、中国の人民全てが流暢に話せるわけではない・・・・という言語の違いにまつわる実態が、中国の中でもひとつの大きな障害となっているのは事実でしょう。


ところで、客家語とは、古代中国の政治の中心であった中原という地方で話されていた言葉がそのまま残ってできたと言われています。これは、沖縄の方言であるうちなーぐちが、文法的に日本の古語をベースにしているのと非常に似ていると言えますね。


そして、中世以後、彼ら客家は戦乱を逃れて中国を南下し、その後華僑として海外に離散していったのです。しかしその後も各地で客家のコミュニティを作り、その中で集団でまとまって暮らすことによって自分たち独自の言葉を守ってきました。これも、うちなーんちゅが本土や海外の移民先でも強い結びつきを持ったコミュニテ ィの中でうちなーぐちを話し、自分たちの言葉を守ってきたという点に非常に似ているといえます。


客家語は北京語と広東語の中間の特徴を持っているといわれます。そのため、客家出身の者は、政治での中心である北京、そして経済の中心である香港、どちらの地方の言葉の習得も比較的簡単に習得できたそうです。だから客家出身の人には、政治や経済、軍事、教育分野での重要人物が多いんですね！(たとえば、孫文やその妻 の宋慶齢、小平、中華民国の元総統・李登輝、シンガポールのゴー・チョクトン、リー・クァンユーなど・・・・政界だけを見てもかなりの重要人物たちばかり！)
                                                                                                                                               
                                                                                                                                                      



<img alt="P1000804.JPG.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/P1000804.JPG.jpg" width="150" height="113" />                                                                                 
                                                                                                                                             

                                                                                                                                               


それに対して、本土の「標準語」と大きく異なるうちなーぐちは、逆に成功への障害となりました。うちなーぐちを母語とすることは、沖縄出身者の本土の政界・財界・学会への進出を難しいものにしたとも言えます。本土でも、移民先でも、そして故郷である沖縄でさえも、先人のうちなーんちゅ達は日本語とうちなーぐちとの言 葉の壁で苦しみました。彼らの言葉、うちなーぐちがヤマトゥンチュとの意思疎通をより難しいものにし、彼らの生活をより厳しいものにしていたことは事実です。


この点が、客家と沖縄の言葉をめぐる一番の違いなのではないかと思います。


現在ではテレビを中心にしたメディアの普及により、中国でも日本でも全国的に「共通語」が普及しました。いまや国民の間で「国語」や「共通語」での意思疎通は何も難しいことではありません。しかし、同時に方言や地方独自の言葉が失われつつあるのも事実です。


客家人の中でも、客家語を話せないという人が増えていると聞きます。これは沖縄の若者が古いうちなーぐちを話せなくなっているのと同じでしょう。メディアが発達し、テレビの影響で全国的に広まった「うちなーやまとぅぐち」が主流になる一方で、海外の沖縄県人会や海外の客家コミュニティは、より昔の形に近い自分達の言 葉を残そうとする動きを見せています。客家語検定や、うちなーぐちのスピーチコンテストなどがそれです。


「言葉は時代の生き物」　と言いますが、時代の流れに乗って、新しく生まれてくるもの、そして失われていくもの・・・・それを「ことば」がわかりやすく表しているのかもしれません。


<img alt="SANY0075.JPG.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/SANY0075.JPG.jpg" width="150" height="112" />                                                                                 
                                                                                                                                                        

                                                                                                                                                     
                                                                                                                                                 

これはこの前のリオ滞在のある日の夕方に、『旅の指差し会話手帳　うちなーぐち編』を、沖縄系２世のおばぁと一緒に読んでいたときのこと。


僕はそのおばぁに「うちなーぐちわかる？」と聞かれ、「わからない！」と自信満々に答えたのです。笑　


そしたらこんなことを言われました。


「あんたはうちなーぐちをしゃべらんかもしれないが、あんたのおじぃとおばぁはしゃべってたはずだよ。」


僕は祖父母の記憶がほとんどないので、うちなーぐちは全然わかりません。でも、この考えてみれば当たり前のことば、それをこの僕にかけてもらったとき、何かが自分の中で変わりました。


うちなーぐちを、完璧に話せるようになりたいとは思わないし、客家語も完璧にマスターしようと思わない。


でも、その話者に対して敬意を持って接したり、自分が話せない「自分達のことば」をその子孫として想うこと、いつくしむこと。そんな大事な事に気づかされた貴重な一言でした。



                                                                                                                                                                     
                                                                                                                                              

なか：プロフィール
祖父が沖縄・宜野座村、祖母は大宜味、僕は埼玉、所沢生まれのウチナー３世、現在ブラジルに留学中。 名前が三文字なので、よく中国・台湾系？と間違えられる。外国語大学で中国語を勉強していましたが、そこでブラジル音楽にドップリはまり路線変更。中南米うちなーんちゅについて勉強することに。サンパウロに到着後、海外で活躍する客家(ハッカ)とウチナーンチュたちに深く感銘を受ける。ここ３年は浅草カーニバルにも打楽器隊の指揮者や弦楽器の奏者として出場。日本のサンバを応援します◎ 



 ]]></description>
         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/07/02/post_20.htm</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">なか</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 02 Jul 2007 19:45:47 +0900</pubDate>
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         <title>Mission：Almost Impossible---ウチナー・キューバンチューの移民百周年祭（１）</title>
         <description><![CDATA[キューバのウチナンチューが、今年移民百周年目を迎えると聞いたのは、確か去年のくれか今年の年明けだったと思う。１０月に、キューバにいる県系の皆で集って、祝賀会を開く予定であるという話しだった。お知えてくれたのは、メキシコ在ウチナーンチューのトミヤマケンタさん（メキシコ在）。富山さんは、琉球大学時代にスペイン語を勉強しながらキューバの沖縄移民史に入り込み、その後のめり込んでキューバ留学で勉強を続けながら、現地のウチナンチュ達と交流を続けてきた。２００１年以来、世界ウチナンチュ大会やジュニア・スタディーツアーなどで通訳や橋渡し役としてずっと陰でサポートしてきたに〜しぇ〜（若者）である。


ウチナー・キューバンチューが移民百年目を迎えるという話は、私にとってその時が初耳だった。こんなおめでたく大事な節目を迎える彼らの事が、今までほとんどマスコミで取り上げられていないことに、正直いって驚いた。というのも、日系移民国はどこも次々に百周年を迎え、私自身２００６年・１月にペルーの盛大な百周年祭に参加してきたばかりだったし、２００８年にはブラジルとアルゼンチンも沖縄系独自の百周年イベントを進めていて、関連メディアはそれらのニュースで賑わっていたからだ。キューバの日系移民は１９９８年に日系移民百周年祭を開催したことは知っていたが、日系キューバ移民のマジョリティーは沖縄系である。だから、これまで沖縄系移民社会の動きを追ってきて、マジョリティーである沖縄系の百周年に、世界からウチナーンチュがキューバに総出しての祝賀会の予定がないのも、なんだかおかしな感じがしたのであった。


きっとそれは、キューバへの移民が他国に比べ著しく少ない事、国情がら沖縄県人会も正式な団体と認められていず活動自体も難しいこと、そしてキューバの特殊な事情が外界への情報伝達を困難にしていることが主な原因だったのだろう。北米の住民になったがゆえ、２０年近くもキューバに行く夢を叶えられずにいた私だから、この話しを聞いた時、１００年に一度の歴史的なモーメントにこそ何とかしてキューバへ行きたい・・！そうだ、この機会にアメリカからキューバのウチナーンチュに会いにいく初のウチナー団体を立ち上げて百周年を一緒に祝おう！！！と奮い立ったのが、私とキューバ・沖縄百周年祭との関わりの発端であった。


北米で生活した経験のない方達にはピンとこないかも知れないが、キューバはアメリカから一番近くて、一番遠い国だ。フロリダの端、キーウエストまで行けば見えるというキューバ島なのだが、社会主義国になってから、北米はキューバと国交がないばかりか経済封鎖や対政策をとっている。一般の米国住民はいくらかの例をのぞいて渡航が禁止されている。米国籍じゃなくても、私のように永住権を持ってアメリカで暮らしている日本国籍者にも、同じ法律がアプライされるのだ。


なので北米から団体としてキューバ訪問を正式なルートで実現させるためには、法的問題をクリアし、米国から渡航許可を得なければならない。これはかなり高いハードルである。しかし、北米ウチナーンチュのキューバ渡航の困難さもさることながら、キューバのウチナーンチュの皆さんは、端から見れば当然の権利と思われる自分達の祝賀会の実現にさえ、悪戦苦闘していた。そもそもキューバでは、大勢の人が集会を持つこと自体が困難であるし、集りを持てる場所を探し確保するのも難しい。沖縄県人会どころか日系協会まで国から正式には認可されていないというし、国外に案内状を送るにも何ヶ月もかかるというし、インターネットは一般人の場合、ごく一部の人達がメールのみ使える状態である。またあちらの経済システムは、資本主義国に住む私たちの思考回路の全く外のものである。


全てが困難を極めていたので、少しでも役にたてればとお手伝いをかって出た私たち（トミヤマ、オオシロ、私）は、現地での視察と話し合いのため、１００周年に先立ってキューバを訪問することになった。５月３０日から６月４日まで、とうとう現地視察が実現し、キューバのウチナーンチュは私たちを暖かく迎えてくれた。短い期間ではあったけど、一緒に大使館など政府機関への協力願いに出向き、イベントプログラムの重要ロケーションの視察など、朝から晩まで走りまわるのアクション・パック。　連日連夜皆さんのお宅でご馳走になり、出会いがいっぱい詰まった、実りの大きい意義深い視察滞在となった。


キューバのウチナーンチュは、現在、百周年実行委員会を正式に立ち上げ、１０月２７日の沖縄移民１００周年祝賀会の実現と成功のために走りまわっている。大事なのは、祝賀会の豪華さや参加者の人数よりも、努力の質と意義ある交流だ。「結果も大切だが、プロセスこそ大切なのだ」と声高に言えるのが、今回のウチナーキューバの百周年祭なのではないかと思う。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
＊沖縄キューバ移民百周年祝賀会は、キューバ沖縄県人会の主催で、１０月２５、２６、２７日の三日間に渡って開催されます。私自身はお手伝いさせてもらっているサポーターの一人であり、沖縄レキオ・チャンプルー村の主催・企画ではございません。お問い合わせはキューバ国外のボランティア・サポーターにご連絡ください。

スペイン語の問い合わせ／トミヤマ：　cubanchu@hotmail.com
プログラム・現地でのコーディネイト／オオシロ：oshiro@mexicokanko.com.mx
北米から参加希望の方は／アッコ：tinsagu@gmail.com


<img alt="IMG_2014.JPG" src="http://www.lequiochamploo.org/news/IMG_2014.JPG" width="３66" height="280" />

青年の島にて歓迎夕食会ーーーキューバの首都ハバナからプロペラ機で約３０分南下したところにある島で、元は「松島」と呼ばれ、キューバの日系人には縁の深い島である。


LA GOYA：プロフィール
北米在住うちなーんちゅー、女性。
６０年代、米軍統治下の琉球政府のもとに沖縄に生まれる。
対照的な二つの町、コザ／首里育ち。

うちなーんちゅと世界に散らばる日系人の
多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント？提唱者。
]]></description>
         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/06/15/post_19.htm</link>
         <guid>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/06/15/post_19.htm</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">La Goya</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 15 Jun 2007 01:22:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>緯度と子供</title>
         <description><![CDATA[“温かい”ところは子供がじゃんじゃん増える！

南極、北極に近づくほど出生率が減って、赤道に近づくほど出生率が増える！？という内容の10行くらいの記事がグラフつきでeconomist.com（5月22日）にあった。ふーん、と思いながらグラフをよくみて、the economistもこんな記事を書いて遊んでるねぇ、何事も余裕、というか遊びは大切だな、と我に返る。


それはさておき、僕は今、沖縄を離れて日本のかつての中心地、過去と現在がうまく調和している街、京都に住んでいます。ここに住んでみて、面白いなと思っていることの一つに、日々更新される日本中のニュースがとても身近に感じられる、という事があります。それは、どういうことかというと、“地続き”なんですよ、ニュースが。これはびっくりです（驚いているのは僕だけ？）。当たり前といえば当たり前ですが、「車を2時間もぶっ飛ばせば、どこにいっても海の上」っていうような小さな島に、物心ついてしばらくしても住んでいた僕にとっては、感覚としてすごい違いを感じるわけなんです。


例えば、「トム・クルーズ来日！映画のプロモーションで、東京-大阪間新幹線貸し切りでファンサービスー！」とかっていうニュースがあると、沖縄にいたら、「ああそうなんだ、東京―大阪間新幹線貸し切りね。」くらいの驚きなんですが、ここにいると、「ええー!　トム・クルーズが！　しかも、東京―大阪ってことはすぐそこ通るじゃないかっ！」っていうような、より身近な大きな驚きになるわけです、まさにニュースです。こんなにいつも驚いているわけではありませんが、一時が万事、こんな風にニュースが地続きのものとして感じられる訳なんです。ところが、明るくて進歩的なニュースの場合はいいんですが、最近はちょっとショックを受ける暗いニュースが連日のように日本では報道されていて、それも地続きの感覚で伝わってくるのです。

レキオちゃんぷるー村用の僕は、明るく軽いノリで行こうかなぁーなんて思ってたんですが、最近の子供に関する深刻なニュースから、ちょっと子供を育てる立場の、大人達が住む地域について考えがおよんだので、少しまじめなのりで書いてみます。日本では、沖縄も含めて60年くらい前までは「地域で子供を育てる」という感覚が自然にあったように思います。少なくとも、僕の親世代は沖縄でそういう環境で育っています。これが、ご承知のように、日本は高度経済成長期に突入して家族や地域の形態が変化してきたわけで、祖父母と暮らさない核家族化が進みました。　そして、その猛烈仕事世代の子供世代である僕らの世代、今の30歳前後の世代は、何を考えているのか分からないと言われた世代で、初めて親世代との意思疎通が世代間の問題として社会的に認知され、日本の社会構造の変革期となる失われた10年といわれる期間を成人になる過程とともに経験した、いわゆるX世代（ジェネレーションX）です。この家族形態の変化の中で、地域のあり方も当然変化してきました。社会が経済的に豊かになると同時に、職を求めて都市への人口移動量が増えることによって、田舎の地域は過疎化が進み、都会は「隣に誰が住んでいるかわからない」関係を持つ地域を形成するにいたりました。とても大雑把に書いていますが、大枠からみるとそんなところです。世界の多くの地域では、似たような状況が今も進行しつつあるのだと思いますが。


地域が子供を育てる、という事の利点をいくつか挙げると、男の子だと父親が仕事にでている間に、地域のおじいさんや叔父さんなどが周囲にいて彼らからいろいろ学びます。良かれ悪しかれ社会やコミュニティの中での男の役割とか自分の位置をより相対的に身をもって知るわけです（笑）。母親としても、一人で子育てをゼロから始めるわけではないので、アドバイスをくれたり、育児を直接てつだってくれるおばあちゃんやおばさんなどもいて、育児のストレスがあまりなかった、と聞きます。もちろん、おせっかいおばさんは玉に瑕(きず)ですが(笑)。
また、地域自体がゆるやかな結合体なので、子供は地域内を安心して遊びまわれるという素地があります。この中に負の側面を探そうと思えばでてきますし、地域で育てるという事自体のデメリットももちろんありますが、短期集中の即席労働で作り出した核家族化が現代にもたらしている状況よりはまだ希望があるのではないか、と考えています。時代を戻す、という事を言っているのではなくて、これから社会を考えていく際にオプションとして、こういう地域も機能的な都市部同様、住む場所として選択肢にあってほしいな、という僕らが舵をとれるであろう事についてです。


ここで、「沖縄らしさ」とか「沖縄の強み」を考えてみると（もちろん、沖縄だけじゃなく世界中の小さな島々や大陸の漁・農村部などでも共通することがあると思います）、美しい自然と並んで、「いちゃりばちょーでー」や「ゆいまーる」という概念を文化の基盤として持つ、うちなーんちゅ一人ひとりの、温かさ、思いやり、自然にあふれる笑顔、といったものがあると思います。そして、逞しく、尊敬の対象となる「おじぃ、おばぁ」がいます。あ、もっとあるんですけど、ここでは割愛(笑)、とまらなくなるので絞ります。
　
未来に対して可能性を残すものとしては、「にらいかない」であり、「ちゃんぷるー」があげられると思います。僕は沖縄大好き人間なので、少し理想（幻想？）が入っているかもしれませんが、沖縄の外から来るものを心からもてなし、沖縄自身と融和させるという基盤思想、これがもしかすると、沖縄が、フラットになる世界の中で沖縄として存在する道の一つなのかもしれない、と勝手に思ったりしています。長くなるので、ちょっと飛躍しますが、簡単に言うと、沖縄で生まれてなくても、うちなーんちゅになって、その上でもなお沖縄が沖縄としてある。沖縄のもともとの文化でなくても、それが沖縄の中で新しく生まれていく。わぉ、なんてダイナミックで楽天的な沖縄！
　
じゃあ、沖縄ってなんだ？ってことになりますが、それでいいんです。
といっちゃった(笑)。沖縄の人間的温かさ、思いやり、自然にあふれる笑顔を持った人たちのいる場所。およそ北緯2６度、東経12７度にある沖縄本島を中心に南北3000kmの洋上に散在する島々に住む、そういう人たちの受け継いでいく“生き方”、“日々のすごし方”、“つながりのあり方”、それが“沖縄”でいいんです（笑）断言しちゃった。そんな沖縄的ちむぐくるをもって、沖縄に住んでいれば、うちなーんちゅってことで。


はじめの話しに戻るんですが、そういう温かい“うちなーんちゅ”的な場所には、地域に育てられる子供がきっといると思うんです。どうでしょう、道端で三線弾いているおじぃがいたり、ゆんたくしながら野菜をよりわけているおばぁ達がいたり。いまでは、沖縄でももしかすると、地域で子供を育てているような場所は五本指に入るくらいの数の小さな離島くらいだけかもしれません。本当に理想になっちゃいますが、地域に育てられる子供達は、「隣にだれがすんでいるかわからない」場所で育つよりも、人間的つながりの持つ意味を無意識に理解しながら育つ、そんな風に思います。理想がかなりはいっちゃいましたが、せめて沖縄には、そんな“温かい”場所が残っていってほしいなぁ、と地続きのニュースを目にしながら考えたのでした。


<img alt="UN01%20099.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/UN01%20099.jpg" width="376" height="283" />
京都の下賀茂神社。室町時代の装束をまとって、走りながら的を射る行事で流鏑馬（やぶさめ）の一こま。
　
<img alt="UN01%20147.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/UN01%20147.jpg" width="376" height="283" />
京都西の清滝近くにある松尾芭蕉の辞世句とも言われている句の石碑。
「清滝や波に散り込む青松葉」


shu: プロフィール
両親は離島出身。本人は本島生まれ。
Genographicプロジェクトの遺伝子解析結果によると、
ヒマラヤ山脈東の盆地に近い祖先がいて、東進ルートで
うちなーんちゅとなるに至った。
世界の観光地、沖縄、ハワイを経て現在は京都。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">shu</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 24 May 2007 00:11:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title> ５・１５</title>
         <description><![CDATA[生まれたのは那覇であったけど、その後まもなく父が嘉手納基地勤務になったためコザへ引っ越したので、私の頭に焼き付いている幼少の思い出は、全部コザである。 

当時、夜の社交街として繁栄していた中の町に小さな間借りの部屋を見つけ、私の家族は生活していた。トイレが家の外にあり、それがまだ珍しくなかった時代である。あの頃は基地勤務が給料も待遇も一番だった。ハワイ移民帰りで顔のきく親戚の紹介で米国大企業・ジェネラルモータース勤務になった父の給料は＄１００をちょっと超える額、当時の物価ではなかなか良い給料だったらしい。そんな仕事のきっかけがない限り、保守的な首里の家系に育った父は絶対にコザのような町へ移ったりなどしなかっただろう。

その頃、沖縄の基地の町々はとにかく荒れ狂っていた。ベトナム戦真っ最中で、米軍統治にあった沖縄から沢山の兵士がベトナム激戦地に送られた。まだ徴兵制度が行われていた時代である。いつ戦場に送られ、帰って来れない身になってしまうかもしれない運命に翻弄される米兵で夜な夜な路上はごった返し、コザの住民はみなその緊張感を体で感じ取っていた。（そんな中で大儲けをしたコザんちゅもいっぱいいたようだが、この話は又別の機会にしよう。） 


当時、私は近所の子供達にもれず、米兵を見つけては物乞いをしていた。アメリカーを見ると走り駆け寄って、「ギミ・マニー、ギミ・ペニー！」といって両手を出す。かなり高い率で、彼等はポケットに手を突っ込んでペニーや５セントをくれたように覚えている。　当時塩せんべいは１セント、5セントでチューインガム、１０セントあればチョコレートが買えたと記憶している。運良く米兵から小銭を手に入れた時には、近くのいっせんまちや〜（駄菓子屋）に走りこんで、店頭にならんだジャンクフードにちむどんどん（ワクワク）し、今日は何にしようかな〜と心が踊る。しかし大抵の場合稼ぎ？は10セント以下なので、塩せんべいとチョコ・クリームがレギュラーだったけど。 


塩せんべいをかじりながら幸せいっぱいに家に向かうとき、近所のおばさん達が道ばたでたむろしていて、誰々のハニーのマイキーは、来週ベトナムに送られることになったとか、どこどこの旦那のチャーリーは帰らぬ人になったなんて話をしていたりする。　そんな時、いつ戦場に送られ死ぬかもしれない運命にある米兵に、ねだってもらった小銭で駄菓子を買って食べている自分の良心が子供心にもとがめる。　それでもーー食べかけの塩せんべいはきちっと最後まで食べる。家に帰れば戦争中ヤンバルに逃げて、いつも空腹でごはんをお腹一杯食べる夢ばかりみて、蝉やバッタまで捕まえて食べていたと言うのが口癖の母が待っている。だから、この塩せんべいだって食べきらないわけにはいかないーーなんて子供心にも自分に言い訳をする。私の脳裏に強く残っている幼少の思い出のひとつである。 


５月１５日ー−３５年前、沖縄が日本復帰した日。毎年この日がやって来る度にそんな幼少の思い出が蘇ってくる。 



みなさんは今日、何を考えてますか？ 


<img alt="GoodOldDays14.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/GoodOldDays14.jpg" width="453" height="401" />
(写真＝当時の写真。ムーンビーチにて）

LA GOYA
北米在住うちなーんちゅー、女性。
６０年代、米軍統治下の琉球政府のもとに沖縄に生まれる。
対照的な二つの町、コザ／首里育ち。

うちなーんちゅと世界に散らばる日系人の
多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント提唱者。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">La Goya</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 15 May 2007 22:30:14 +0900</pubDate>
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         <title>「東アジア系」ブラジル人</title>
         <description><![CDATA[サンパウロに着いてはや４週間。もうすぐ一ヶ月が経とうとしています。

南米最大の都市であり、ブラジル経済の中心でもある、そして文化・流行の発信基地としての顔も備え持つこのサンパウロという街には、様々な国々からの移民・そしてその子孫たちが毎日を忙しく、そして楽みながら暮らしています。

そんなサンパウロの中心部に程近い「リベルダーヂ」という地区は、多くの日系人が暮らし、その街の景観はどこか「Oriental」という言葉がしっくりくる、異国情緒あふれた特異な存在です。

リベルダーヂ＝日系人の街とよく言われますが、近年この街に暮らしているのは日系人や日本人だけではありません。

中華系、韓国系のブラジル人も多く、そしてもちろんみなさんが想像するような黒人と白人の混血といった典型的なブラジル人も多く見ることができるのです。

そしてここはまさに「東アジア」という存在が「街」の単位としてこの南米の一都市の中にあるといえるでしょう。たとえば、日本料理屋もあれば、そのとなりは中国料理店・・・そのまた向こうの通りには韓国料理店や沖縄料理店も・・・といった具合に(！)
 
=========================================================================

僕が北京に短期留学して中国語を勉強していたとき、ブラジルから北京に長期で中国語と中国文化を学びにやってきたという、面白いブラジル人青年に３人出会いました。

一人はユダヤ系ブラジル人。彼は英語も堪能で、僕と一ヶ月間ほど北京で二人で一緒に暮らしましたが、その時は僕はポルトガル語が全くわからなかったので、ずっと英語で会話をしていました。彼の出身はリオ。彼はいつも気さくで話すときもジョークを絶やさない。（リオ出身・リオ育ちの人はこういう明るい方が多いです）と いうような、みなさんが想像する「ブラジル人」としての気質を備えていました。今、彼はまだ北京に留学していて、中国人の女の子と交際しています。そろそろ彼女と結婚するとかしないとか・・・・？(笑)
 
そしてあとのふたりは僕が今いるサンパウロの出身でした。彼らは二人とも、両親が台湾と香港からの華僑という、中華系ブラジル人３世の二人。
 
彼らの使用言語を聞いてみたところ、２世の両親はともにポルトガル語はほぼネイティブなので、家庭での日常会話は全てポルトガル語だということでした。そのため彼ら３世には中国語・中国文化というものはあまりなじみはないが、是非その本場・中国に赴いてその言葉や自分たちのルーツを探ろうと、北京で熱心に中国 語を勉強する華僑の３世たち・・・。
 
そんな彼らに僕は非常に好意を抱き、「僕は中国語を勉強しているんだけども、ブラジル音楽が大好きで、ブラジルに是非行ってみたい！」ということを伝えると、僕はすぐに彼らと仲良くなってしまいました(笑)・・・・それから一ヶ月、よく遊び回ったものです。(ときには授業そっちのけで！)
 
そのときは、僕がまだブラジルに来るだろうなんてことは全く思いもしなかったけれども、もしできることなら、「彼らが育ったブラジルのサンパウロというところに行ってみたい！」と思うようになりました。
 
そんな淡い思いも、もはや現実。このサンパウロに着いてから、彼ら中華系ブラジル人３世・そして彼らの愉快な友人たちと、たくさん交流するようになりました。
 

ところで、「３世」というポジション・視点・経験。これはとても興味深いと思われる方が多いと思います。
 
直接移民として渡り、自分のルーツや文化を守りながらその国に暮らしの基盤を据えた１世の方々。そしてそんな両親に育てられ、家庭では両親やその国の文化を受け継ぎながらブラジル社会に生きる２世の方々。
 
彼ら１世・２世は、その次の３世という世代のもつ感受性やアイデンティティというものをどうとらえているのでしょうか？
 
僕が今関わっているアジア人移民の３世の中では、どうやら自分のルーツの国々に対する思いというものは複雑なものがあるようです。残念ながら、言葉も風習も異なるため、両親・祖父母の「祖国」という土地や、その文化に実感が伴わない、というところが大きいでしょう。

これを聞いて残念に思われる方は多いかもしれません。ところが、ここサンパウロで暮らしていくうちに、彼らは彼ら独自の「日系３世」としてのアイデンティティを持っているのです・・・・と、ここまでは、たくさんの方が聞いたことがあるかもしれません。

というのは、多くの場合、日本で海外に移住した日系人のことを調べていたり本で読んだりする時に、日系人というくくりの中でさらに「３世」というよう世代を限定する。このような表現は、こちらに来て、いろいろな日系３世の友達と交流していくにしたがって少し何かが違うのではないかな、という風に僕は感じるようになっ たからです。

この「日系３世」という表現や「日系３世」が「彼らなりの「日系」を意識しあっている」というのは、あくまでも「日系の１世・２世の視点から語っている口調」だからです。その表現には共にアイデンティティを意識し、連帯しあっている若者は、「日系」であることが限定されているのです。
 
ところが実際には、サンパウロの中で多く暮らす日系３世（４世も）の若者たちは自分たちのコミュニティを「日系」に限定することなく、中華系や韓国系の２世・３世の若者たちとも深く交流しています。言ってしまえば彼らは「アジア系」のブラジル人としてのコミュニティを作り、その中で交流しているのです。
 
もちろん、その中で自己紹介をしたり自分のルーツを説明する際には、「日系」・「中華系」・「韓国系」という区別が必要になってきますが、彼らにとってはそういった区別は１世・２世の方々が区別する基準というものより、はるかに小さな存在に見えます。
 
彼らのコミュニティに入って、いろいろな時間を過ごしていくうちに、「日系」というよりも、「アジア系」ブラジル人としてのアイデンティティを模索していたり、新しい連帯の形というものを考えているように僕には感じられました。
 
日本にいると、日系人のイヴェントや、日本に関するニュース・・・そういった情報がたくさん入ってきますが、ここサンパウロではもっともっといろんな国・いろんなルーツの人たちが、よい意味でぐちゃぐちゃにいりまじり、まさに「ちゃんぷるー」という言葉がぴったりな環境なのです。

僕もこれから、いろいろな枠にとらわれずに、ありのままのサンパウロという町を見つめて、いろいろなことを考えていきたいと思います。よーし、今日からまた、頑張るぞー！

最後に、ここリベルダーヂで手に入る中国語の新聞。「南美僑報」(Jornal Chines　para America Do Sul)。南米にわたった華僑の方々はこれでいろいろな情報をチェックし、週末にはいろいろなイヴェントを開いているようです。機会があればそっちにも行ってみて、次回にレポートしたいと思います。

それにしても、サンパウロ市でこの新聞を毎週買って読んでいる日本人は・・・・もしかしたら僕だけかもしれません(笑）
 
<img alt="Sao%20Paulo%201%20081.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/Sao%20Paulo%201%20081.jpg" width="500" height="375" />

<img alt="SANY0042.JPG" src="http://www.lequiochamploo.org/news/SANY0042.JPG" width="500" height="375" />


なか：プロフィール
祖父が沖縄・宜野座村、祖母は大宜味、僕は埼玉、所沢生まれのウチナー３世、現在ブラジルに留学中。 名前が三文字なので、よく中国・台湾系？と間違えられる。外国語大学で中国語を勉強していましたが、そこでブラジル音楽にドップリはまり路線変更。中南米うちなーんちゅについて勉強することに。サンパウロに到着後、海外で活躍する客家(ハッカ)とウチナーンチュたちに深く感銘を受ける。ここ３年は浅草カーニバルにも打楽器隊の指揮者や弦楽器の奏者として出場。日本のサンバを応援します◎ 
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         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/05/13/post_17.htm</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">なか</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 13 May 2007 22:11:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>The Sugar Island--砂糖島への想い（１）「Kozoさんとの出会い」</title>
         <description><![CDATA[私がKozoさんのことを初めて知ったのは、去年の夏だった。夫と一緒にウチナーハワイワン３世であるA氏と、ウクレレ奏者ジェイク・島袋のコンサートで落ち合った時のことである。

そのライブハウスでは、観客はテーブル挟み向かい合って座るセッティングになっていて、演奏前には食事やお酒を楽しみながら、もうすぐ目の前に現れるアーティストを、期待と興奮の中で待ちわびる。そんな中、同席者は見知らぬ同士でさえ会話に盛り上がるから、その晩もA氏とテーブルを囲んでユンタクが弾んだ。音楽の話しからレキオ・チャンプルー村構想の話しになり、そこから沖縄系ラティーノの話しになり、そして存在がほとんど知られてない沖縄キューバ移民の話しを私が持ち出したとき、A氏が言った。
“oh, yeah, speaking of Okinawan-Cabans,  in fact, I know some here in Washington.”　あぁそうね、沖縄系キューバ人といえば、ここに住むウチナー・キューバンチュを知っているよ、と言うのである。私はそれを聞いたとき、歓喜のあまり飛び上がってカチャーシー・サルサ？を踊りだす一歩手前だった。


私が音楽と踊りに日々が溢れるという島キューバに恋い焦がれるになってから、もう何年の月日が流れているだろうか。北米の住民になったがために、自分にとってこの島が一番近くて一番遠い禁断の島となってからは、すでに１８年が経っていた。 
この共産主義国の孤島に（実際にはそれほど孤島でもないことが次第に分かってくるのだが）わずかに残る沖縄移民一世と、閉ざされた島でキューバ人として生きて行く彼等の子息の存在を知るようになってからは、行ったこともない島に住むちょ〜で〜達に、勝手に慕情を募らせるようにまでなっていた。　だから、ウチナー・キューバンチュが近くにいるというニュースを聞いて心が飛び跳ねんばかりだったのだ。 ”it’s Kozo-san and his family, ” と A氏が続けた。それが、私がKozoさんのことを知ったきっかけだった。


時は１９３７年、Kozoさんはキューバへやって来た。彼が生まれたのが１９２０年だったから、１７歳の時である。沖縄の漁猟どころとして知られる糸満出身の彼も、代々からの漁師の家系に生まれ育ったのだろうか。何ともスゴいことに、Kozoさんは 叔父さんと二人で自らの漁船で糸満を発ち、糸満からハワイ、ハワイからカリフォルニア、カリフォルニアからメキシコ、メキシコからパナマ海峡を渡ってキューバに到着したというのである。


糸満漁師は沖縄では海人（ウミンチュ＝海の民）と呼ばれ、彼等の勇敢さは広く知られているが、とにかくこれは驚きの話しだった。　一般的な契約移民や自由移民の枠を超えていて、全く自分の意志と漁師としての航海術で沖縄からキューバまで小さな船でやってきたという、私にとっては今まで全く聞いたことのないタイプの移民だったのだ。あぁKozoさんて、なんてカッコいい人なんだろう・・！！！♥❤


彼の話しにすっかり心を奪われてしまった私は、間もなく始まったジェイクの演奏にしばし集中出来ずにいた。　夫とジェイクには悪いのだが、、しばらく彼のウクレレをバックグランドに、てぃさ〜じ〜を頭に巻いて日焼け顔の颯爽とした１７歳のKozoさんが、ハワイ島を背にし、太平洋を壮快に横断していく姿を思い浮かべていた。それはほとんど恋のようなものだった・・・。（続く）


さてKozoさんは、どっちでしょう・・？
<img alt="11.UeharaFamily%26%20freinds.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/11.UeharaFamily%26%20freinds.jpg" width="405" height="327" />







LA GOYA
北米在住うちなーんちゅー、女性。
６０年代、米軍統治下の琉球政府のもとに沖縄に生まれる。
対照的な二つの町、コザ／首里育ち。

うちなーんちゅと世界に散らばる日系人の
多様性、多国籍性、多言語性を活用させる、
チャンプルーイズム・ムーヴメント提唱者。

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         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/04/07/sugar_island.htm</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">La Goya</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 07 Apr 2007 03:25:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>沖縄へ行ってまいりました。</title>
         <description><![CDATA[みなさんこんにちは！お元気ですか？
Ayumiは今、日本にいまーす。
一時帰国をしています。
先週、沖縄へ行って参りました！！

新婚旅行以来３０年ぶりの訪沖となる両親と、
沖縄大好き！な叔父夫婦の総勢五名で
沖縄珍道中！！ってな４日間を満喫してきました。


今回の旅の目的は、恋人の実家に行くことでした。


ご家族のみなさまに、暖かいもてなしを受け、
呑んだくれな五人は、大変感激しました！！

恋人くんのママが作ってくださった、沖縄の家庭料理には
一同大感激！！！

今まで食べた中で一番美味しかったラフテー
田芋をつかった、甘くて美味しい一皿、
もちろん、ゴーヤチャンプルーも！

ほかにもたーくさんありました。
やっぱり家庭の沖縄料理、美味しいです。

味付けが良いですね。
恋人くんのママいわく、
これは豚肉からいいダシが出ているんだそう。

こんな美味しい沖縄料理を作れる嫁になりたいものです。

皆さんには、とりあえずお写真だけ・・・
思う存分ヨダレを垂らしてくださいねっ！！

<img alt="P3080384.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/P3080384.jpg" width="400" height="300" /><br />

<img alt="P3080385.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/P3080385.jpg" width="400" height="300" />

---
AYUMI：プロフィール
音楽と美味なものが好きな静岡出身26歳。
ブラジル在住もうすぐ三年。
訪沖歴は五回
うちなーんちゅのペット、もとい恋人と生活中。
沖縄もブラジルも人があったかくて大好き！]]></description>
         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/03/20/post_16.htm</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">AYUMI</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 20 Mar 2007 05:40:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ダイヤモンドと児童兵、そして少しだけ真面目な話</title>
         <description>Nからの誘いでBlood Diamondという映画を見てきた。Nが映画のタイトルをBlack Diamondと間違えて伝えてきたこととレオナルド ディカプリオが出演しているということで、いわゆるハリウッド恋愛映画かと思ってあまり気が進まなかったのだけれど、実はオスカー賞の何部門かの賞を獲得したらしい極めてシリアスな映画だった。まだ見ていない人もいるかもしれないので詳しい内容は省略するが、舞台はアフリカのシエラレオネで、村を反政府武装グループに虐殺されて生き残った男がダイヤモンド原石を川から洗い出すための強制労働をさせられている時に、偶然巨大ダイヤモンドの原石を見つけてしまったことから悲惨な争奪戦が始まり、ダイヤモンド密輸入者（レオナルド・ディカプリオ）とこの映画の原作を書いたジャーナリストがその男に関わってきて起こる出来事を中心に据えながら、凄惨を極める内紛の状況を赤裸々描いた映画である。スピルバーグ監督の映画Saving the Private Ryanを見たときもそうだったけれど、スクリーンをまともに見ることができないくらい壮絶な殺戮場面があったりして、何度か席を立とうと思ったくらい私には見るのが苦痛だったのだけれど、それでも最後まで見ていたのはこの映画が児童兵の実態をかなり適切に描写していると思ったからである。

児童兵とは18歳未満男女の兵士のことで、現在内紛が続いている国にはたいてい存在している。彼らが児童兵になるきっかけはさまざまだが、家族を殺されて拉致されたり、貧困のために自ら志願もしくは家族から預けられたりする場合がほとんどである。物心ついた3歳くらいから兵士として訓練される場合もある。理性や恐怖心を払拭するためにしばしば麻薬が使用され、極度の興奮状態にしておいてから強制的に彼らが所属している武装グループの価値観について洗脳され、人を殺すための訓練を受けさせられる。そうして彼らは大人の兵士と同じように銃を担ぎ、村々を回って自分たちが教えられた価値観に逆らう老若男女を容赦なく殺すようになる。

児童兵たちは昨日まで学校に通っていたり友達と遊んでいたりしていて、私達の小さい頃と何も変わらない普通の子たちだ。将来に対する夢も持っていたはず。貧困にあえいでいても、無差別に人を殺したりするような子どもたちではなかった。それが兵士としての洗脳教育を受けやがては親にも銃を向けるような子どもに育ち、殺人と刹那的な快楽に身を落とすしか選択がない。国連や国際NGOは当該国政府やNGOと連携しながら児童兵撲滅のために様々なプログラムを行っていてそれなりに成果をあげてはいるが、まだまだ問題解決には至らないというのが現状である。戦争や内紛は当該国の内部・外部の利害関係、貧困、宗教など様々な要因が複雑に絡み合って起こることがほとんどなので、児童兵を前線や武装グループから強制的に連れ戻してリハビリや教育を施せばそれで済む様な単純な問題ではない。テレビや新聞にはスーダン内戦で難民が増加しているとか、イラクで爆弾テロがあって犠牲者が30人出たとか、イスラエルとパレスチナの攻撃で市民が犠牲になったとか、そういった世界で起こっている戦争のニュースで溢れていて、ひどい状況だとかかわいそうだとか思ったりする人も多いだろうけれど、自分たちが住んでいるところからとても遠い国（もしくはどこか地球から遠い星）で起こっている出来事に見えるので、自分たちがそれらの戦争にどのように関わっているのかが不明瞭だし、とどのつまりは「他人事」だ。毎日の生活で大変な人もいて、自分たちのことだけで精一杯なのに世界のことなんて考えていられないと言う人もいるだろう。もっともである。私も現在は物価が高いということを除けば快適な（？）暮らしができる永世中立国スイスに住んでいるので、アフリカで起こっている内戦なんて違う次元で起こっているかのようにすら思えるほど非日常的なことである。

しかし、現実には私達一人一人があらゆる世界情勢に関わりながら生きているのである。例えば、女性誌の「自分へのご褒美として買うジュエリー特集」で見つけたとても素敵なダイヤのネックレスをあなたが買ったとする。今週の金曜日には最近リニューアルオープンした贅沢なシティホテルで恋人とロマンチック週末を過ごすことになっている。その時にはこのネックレスを身につけるつもりだ。あなたはその時のことを想像しながら鏡に首元を映し、ダイヤモンドの輝きにうっとりする。（←妄想入りすぎ？）ところが実はそのダイヤモンドはシエラレオネ産で、しかも虐殺の生き残りとして連れてこられた子どもたちが空腹に苦しみながらきつい体勢で川底を浚って見つけた原石から作られたものだったと知ったら、あなたはどう感じるだろうか。

また、あなたが着ている洋服のタグにMade in Bangladeshと書いてあったら、それは劣悪な労働条件と環境で縫製されたものかもしれない。あなたが使っている香水に含まれているジャスミン香料は、真夜中から日が昇るまでの時間にエジプトの子ども達が小さな手で必死で摘んだ花から作られたものかもしれない。あなたが新しいコンピューターを買うために下取りや回収に出した古いコンピューターが、中国の子どもたちを水銀中毒にしているかもしれない。私達が日常使用しているもの、口にしているもの、受けるサービス、ありとあらゆるものが世界中の人々の手を介して私達の手元に届いているから、実際に私達が直接手を下さなくても私達は生きているだけで世界中の人々と関わりを持っているのである。「私はダイヤモンドなんて買わないから、シエラレオネ内戦とは何の関係もない」ということではないのである。

「そんなことを言ったらきりがないじゃないの」と思うかもしれない。その通り。きりがないのである。それは別の言葉で言い換えれば、「私達と世界との繋がりは切っても切れないものだ」ということである。そんなことを言うのだったらどこで誰によってどのように作られたのかわからない出所不明なものを購入するのをやめるとか、もう一切世間との関わりを絶って仙人のように山に籠るとか（←おいおい）、イスラエルのキブツのように自給自足の共同体で生活していくしかないとか、そういう極端な考えは非現実的だ。たいていの人間にとって、現在の生活水準を上げることは目指しても下げることは耐えられないから、今までの生活の在り方を変えるのは現実的ではない。

じゃあ何ができるだろうかと考えると、すぐに始められることは「世界の出来事に関心を持つ」ということである。とは言っても世界中の全ての国でどういった問題があってどんな戦争が起こっているのかについて知るというのはあまりに気が遠くなるような話だし、そんなことを強制されたらつまらなく思えてくる。でも、例えばスーパーに買い物に行って購入したコーヒーが南米コロンビア産だったとしたら、コロンビアってどんな国なんだろう？どういう気候でどういう人々が住んでいて、生活状況は？コーヒー以外にも何か作っているのかな？などと関心を持って調べてみると、コロンビアはまだまだ内戦の続く国で、しかも児童兵がたくさんいて、国民の経済格差も大きく、貧しい人々は雀の涙にも満たないような賃金をもらいながら劣悪な労働環境で仕事をしているというようなことがわかってくる。ここで更に意識的に関心を持つようにしていると、新聞を読んでいてもコロンビアのニュースには目がとまるだろうし、コロンビアの児童兵に関する活動を行っているNGOから情報を得ることになるかもしれない。そこで似たような考えを持っている人たちと出会って一緒に活動をすることになるかもしれない。そうやって1つの国から始めてみて面白いと思ったら、その国をもっと掘り下げて調べてみてもいいだろうし、別の国について調べてみるのもいいだろう。

大切なことは「世界で起きていることに関して無関心でいない」ということだ。実際に児童労働撲滅のために活動している団体などで活動しなくてもいい。そういうことをしたい人はしたらいいし、いろいろな理由や信念で外交的に活動したくない（できない）人はそれでもいい。でも、「関心を持つ」ということはできるはずだ。あなたはたまたまインターネットがある高度文明社会で生活しているけれど、もしかしたら内戦の起こっている国の貧困家庭に生まれて、児童兵として人を殺す人生を余儀なくされていたかもしれないのだ。あなたは自分の知らないところで確実に「世界」とつながって生きているのだから、無関心でいないでほしい。あなたが親なら子どもに、教師なら生徒に、社会人なら同僚に、自分が関心を持って調べたことはぜひ周りの人とシェアしても欲しい。また、周りの人に何を知っているのか聞いてみるといいだろう。あなたが探している情報を持っているかもしれない。例え、何を堅い話をしているのかと煙たがられても、さして興味が無い態度を取られても、あなたの周りで興味を持ってくれる人が1人でもいればそれでいいと思うのだ。それは必ず次の行動に繋がっていくのだから。

                                                                                                                                 
                                                                                                            
                                                                                                            

きやすけ:  プロフィール
沖縄生まれ北海道育ちのウチナーンチュ。              
各地を経て現在スイス在。
現在ラテン諸国へ南下を企み、スペイン語の猛特訓中。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">きやすけ</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 14 Mar 2007 05:38:23 +0900</pubDate>
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         <title>中国・台湾・沖縄・東京・ブラジル de Champloo</title>
         <description><![CDATA[ハジメマシテ。なかです。 


ここ三年間は関東でチャンプルーしてました。 

中国・台湾・沖縄・東京・ブラジル。 

今度はサンパウロでチャンプルーだぁ。サンパウロの華僑のみなさんよろしくね。(近年サンパウロ地区への中国人の進出が目覚しいのです！ぜひそんな人たちとも交流してみたい！) 



そんなサンパウロへの留学までいよいよあと一ヶ月。これから日本でできること、全部やりたいと思います。 



手始めに、自分的修学旅行。自分の卒論テーマに関係するところに行って、視察・考察・サンバ。 


第一弾は 
　　　 
　　　　　　　　 
広島県。 


広島は日系移民の送り出し県Ｎｏ．１の移民県。こういうページもあります↓ 


<a href="http://dms-hiroshima.eg.jomm.jp/">http://dms-hiroshima.eg.jomm.jp/</a> 


第二次対戦後の「平和都市」という言葉の認識や、「中央」「地方」という言葉の受け取り方もだいぶ自分の中で変わってきて、広島は移民史やポストコロニアル的な日本の見方には不可欠な視点を当ててくれる場所だと思っています。 


ていうか僕も広島県人会に住むことになりそう。いろいろあたってみたけど沖縄県人会はもちろんこの時期はどこの県人会も空きがないみたいで・・・ここがダメだったらちょっと南のほうのSaudeにある東京農大会館かな。 


前広島出身の大学の先生に聞いた話では、サンパウロに出張した時に道を聞いたおじいちゃんが「わしゃパウリスタじゃけん・・・県人会はガルボンブエノ通りのむこうじゃ」って広島弁でしゃべってきたみたい・・・。 


インターナショナルでもあり、ばっちりローカル。これこそチャンプルーではないか。「パウリスタ」はサンパウロに住んでいる人の総称。これに対してリオっ子は「カリオカ」。 


東京外語大ポルトガル語科の武田先生はパウリスタとカリオカの気質の違いを東京人と大阪人の気質の違いにたとえ(ようとして)ました。 


パウリスタは勤勉で、カリオカは楽観的。互いに対抗意識もあって、言葉の発音も違う。 


うーん、面白いな。 


僕は完全に本土の関東で育っているから、カリオカよりもパウリスタ寄りで、沖縄よりも本土の気質だと思う。でも、それも大事。 

2007年のテーマは、「ローカル」を大事にすること。世界中、どこでも「地元」になること。 


よろしくお願いします。 

<img alt="070107_1227~0009.jpg" src="http://www.lequiochamploo.org/news/070107_1227~0009.jpg" width="300" height="226" />
これは横浜市鶴見区の沖縄そば屋さんのうちなーすば。
横浜の鶴見区は工場が多い場所で、戦前から沖縄から多数の労働者を受け入れてきた場所。その後、戦時中は朝鮮半島からの労働者や、現在ではペルーやブラジルなどの中南米からも出稼ぎの人々を多く受け入れている地域。その中には南米から逆流してきたオキナワ・ラティーノの方も沢山います。


なか：プロフィール
祖父が沖縄・宜野座村、祖母は大宜味、僕は埼玉、所沢生まれのウチナー３世、現在ブラジルに留学中。 名前が三文字なので、よく中国・台湾系？と間違えられる。外国語大学で中国語を勉強していましたが、そこでブラジル音楽にドップリはまり路線変更。中南米うちなーんちゅについて勉強することに。サンパウロに到着後、海外で活躍する客家(ハッカ)とウチナーンチュたちに深く感銘を受ける。ここ３年は浅草カーニバルにも打楽器隊の指揮者や弦楽器の奏者として出場。日本のサンバを応援します◎ 

]]></description>
         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/03/07/post_14.htm</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">なか</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 07 Mar 2007 22:11:19 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>梅田でペルーでマリアッチ？</title>
         <description><![CDATA[ 
 はいさい！
　
　うちなーんちゅは、やっぱりこの挨拶からはじまりますね。
そして、このあいさつを一言、口から発するだけで、すぐに心が打ち解けてしまうから不思議です。
　
　一息で発する事のできる軽いリズムの挨拶は、楽天的で親しみやすい文化を反映しているのかもしれません。オーラ！とか、アローハー！　とかね。そして、それは相手と距離を置くよりも、相手に手放しで自分から歩み寄る要素を含んでいる気もします。そう考えると、やっぱり沖縄に生まれて、「でーじ幸せやっさー」と思います。

　はいさい!最近どんなねぇー？　
　から始まって、集まって飲み始めると三線片手に歌いだすとか、カチャーシーとか、笑いがたえないとか、そんな楽天性が沖縄の最大の宝の一つでもありますよね。そしてそれは、世界中、どこにいってもそうだと思います。

　京都に住んでほぼ二年が経ちますが、そう遠くはない大阪へたまに行く機会があります。一度、「メキシカン・フェスティバル」なるものがあり、梅田スカイビルに友人と見に行きました。その友人の友人がペルー出身で、大阪に長く在住している方で、ブースを出していました。メキシカンじゃなかったの？というクエスチョンマークはさて置き、フェスティバルを楽しみました。もちろん、メキシコ料理、コロナ・ビール、マリアッチそして民芸品などメキシコの物が主体でしたが、ヒスパニックだし、まぁいいかという感じです。

　そのペルー出身の友人の友人がブースに居たのですが、あいさつをして僕が沖縄出身としると、「大阪に沖縄の人の知り合いが何人か居るけど、皆すごく陽気で、音楽好きで、すぐ踊る、たのしい人たちだ」、と話しかけてくれました。ここで、僕が三線をさっととりだし、すぐに歌って踊れれば、僕のうちなーんちゅとしての自負心と彼の好奇心は、さらになみなみと満たされるわけですが、おとなしいうちなーんちゅである僕は、「えっ、そうですか？　そうそう、沖縄の人はどこにいっても、すぐ歌っておどる楽しい性格なんですよ。それを聞くとうれしいねー。」と満面の笑みで応えるのが精一杯でした。それで内心「さて、また三線がんばろうかー。」と思うのですが、いやはや、本物のうちなーんちゅになる日は、まだ先だ、などとそんな事があるたびに思います。
　
　さて、いい匂いもするし、お腹も減ったので、会場を回ってメキシカン料理とコロナビールでも味わいましょうか、と出されているブースを見て回りながら、お腹の具合と値段の具合を相談していると、
　　　　「＊＠￥＊＆＄＃＆ー！！！」
とスペイン語で、いきなり話しかけられ、ぐいぐいっと腕を引っつかまれました。愛想のいい僕は、笑顔をつくったままうんうん、うなづきながら、「わかりませーーん」のジェスチャーで乗り切ろうとしました。
　が、その後は、英語だったか日本語だったか忘れちゃいましたが、
　「メキシコのどこから来たの？」
　（って、いや、ちがう、僕は決してメキシコ出身じゃぁありません。）
　「ぜったい、そうでしょー。」　
　（いや、ちがいますって。友達が向こうでまってるから、じゃーねー。）
　と退散してしまいました。アメリカでもそうでしたが、他のうちなーんちゅ同様、見た目からヒスパニックだと誤解される事がよくあります。
　そのたびに、三線とおなじく、スペイン語ちゃんと勉強しよう、とハッパをかけられている気分になります。
　　　
　たぶん、うちなーんちゅは、結構こういう体験をした人が多いのでは、と僕や僕の友人達の経験談などからそう思います。そして、この誤解は、うちなーんちゅの楽天性とあわせて、うれしい誤解として、うちなーんちゅがラテン文化圏の方々をはじめ他の文化の方々と溶け合っていく事のできる一つの大きな要素なんだろうと思います。
　
　この点を伸ばし、活かしていく事は日本の中の沖縄という視点だけでみるよりも、世界の中の沖縄という視点で見た場合に、沖縄の大きなアドバンテージであると思うのです（それに気づいてるからチャンプルー村ですよね）。万国津梁の鐘ではないですが、うまくいろんな文化と手をとりながら熱気むんむんの活気ある街をつくる橋渡しの役割りは、歌って踊りながら、はいさい！と気さくに相手に入り込んでいくうちなーんちゅだからこそ、やっぱりできるんじゃないかなぁ、と静かな古都京都の一角で思うのでした。　　

<img alt="DSCF3833.JPG" src="http://www.lequiochamploo.org/news/DSCF3833.JPG" width="282" height="376" />


shu: プロフィール
両親は離島出身。本人は本島生まれ。
Genographicプロジェクトの遺伝子解析結果によると、
ヒマラヤ山脈東の盆地に近い祖先がいて、東進ルートで
うちなーんちゅとなるに至った。
世界の観光地、沖縄、ハワイを経て現在は京都。
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         <link>http://www.lequiochamploo.org/news/2007/03/02/post_15.htm</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">shu</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 02 Mar 2007 07:38:24 +0900</pubDate>
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